ふと気づく。
最後の記事から一年経っている。
よいことなのか、そうでないのか、よく分からない。

忙しい、だけでなく、いろいろ充ちているからなのか。仕事上。良くも悪くも、ネット上で言葉を紡ぐ余剰が出てこない。実生活で、完結してる。リア充? 消耗してるだけ?

先週まで、例によって(この季節)特に忙しくて、相方には「何か、先週は、性格の黒い部分が漏れてた」と指摘されたので、今週はちょっと修正を試みたり。しかし、やり過ぎるとかえって嘘くさくて余計黒くなってしまいそうだ。ほどほどに。

まあ、元気です。一応。

神話を製造しない

「神話」というのは、人間の深層心理と関係が深い。実際の事件を描く際も同じですが、結局のところ歴史というのは人間がものごとをどのように見ているかということの現れなので、同じ出来事でも見る方向が変われば記述は変わります。まして、記号化された歴史、すなわち「神話」の場合、そこには、それを描く人間の心理の根底に横たわるものが現れているのでしょう。その事情は、インターネットの世界に多数現れる「神話」についても、多分同じなのだと思います。



先日、フィギュアスケート安藤美姫選手の妊娠・出産について、いろいろな意見が出た中で、彼女を批判するいくつかの記事に対して強い批判を向けた記事がありました。
「安藤美姫選手に対する常軌を逸した集団マタニティ・ハラスメントについて(人権は国境を越えて)」
記事の趣旨については、何の異論もありません。というより、積極的に賛成。TV画面越しの「応援」とかいうお気楽な立場にいる人間が、アスリートの人生の選択について、保護者気取りでああでもないこうでもないと言うのは、余り見られた構図ではありませんね。もし、実際の保護者が言うのなら、(見られた構図でないことは変わらないにせよ)愚痴の一節くらいには付き合う義理もあるか…と思うところですが、それにしたって、それだけです。他人の人生に何の責任も取らない人間は、他人の人生に口を出すべきではない。ですから、それらの行為を「常軌を逸した」と批判されるのは全く当然です。ただ、その一部に、インターネットにおける「神話」のことを考えさせる一節があったことが、とても気になりました。



ブログの書き手伊藤和子氏は、この集団的なハラスメントについて、こう書いています。

ネット上では最近、これに限らず炎上騒ぎがひどくなってきているが、日本はどんどん不寛容になっていると思う。
人々がつながってプラスのエネルギーを作り出せるはずの、大手メディアとは違う表現手段として新しい可能性を秘めているはずのSNS、ネットが、社会の不寛容を増幅し、心無い誹謗・中傷となって表れているように思う。健全なネットの使い方になっていないのもとても悲しいことである。

おそらく、ここは彼女の主張の中心ではなく、単にちょっとした実感、感慨を書き留めただけのことだろうと思います。が、個人的には、とてもガッカリしてしまいました。ああ、またか。ここにもまた「日本の道徳は低下した」神話がでてくるのか。こうして神話が再生産されていくのか、と。



「日本の道徳は低下」したのでしょうか?
明治、大正、昭和の新聞や雑誌を、仕事柄ずっと眺めた経験で言いますと、日本人はこの間何も変わってないというのが偽らざる実感です。そして、むしろそのまったくの「変わらなさ」こそが、道徳心とかそういうことよりずっと問題なのだと思っています。

けれども、そういう「物語」は、どうやら余り好まれないようです。一般に「変わらない」ということは「問題がない」ことだと思われています。そして「低下した」と言えば、それが問題化できるように。ですが、「低下した」ことへの対策として行われる施策は、「変わらない」ことへの対策としては、大抵の場合有効に機能しないのです。
特にこの「日本の道徳は低下した」という神話は、「もともと日本人の道徳心は高かった」「戦後教育により低下した」「だから道徳教育を…」云々の言説と結びつきやすいという意味で、問題が大きい。実際のデータで、犯罪率の低下、特に若年層における低下(「低下する前」のはずの高年齢の方々の犯罪(粗暴犯)率の高さ!)などの実証が示されても、それらの主張は揺るがないのです。きっと、元の「神話」がある限り、主張者の心の中には、データよりも人々は実感として自分たちの主張を否定しないだろう、という安心感があるのでしょうね。



そりゃあ、まあ、そうでしょう。
『日本人は、もともとお調子者でその日暮らしで、西洋的な意味での道徳観や倫理観は持ち合わせてこなかった、ぶっちゃけ野蛮人でした。』
といった主張をすとんと飲み込むのは、苦労がいります。自分たちの親、祖父母、曾祖父母の世代を素直に尊敬し、祖先を敬愛し、だからこそ、素晴らしい人たちであったと信じたい、という気持ちが溢れていれば、こういう言説に耳を貸したくはならないでしょう。
こういう言葉に耳を貸すのは、現実を憎んでいる人や、ニヒリストや皮肉屋、あるいは「西洋的な道徳・倫理が全てじゃない」ということを論理的・実証的に理解し納得した人たちしかいないのでしょう。そしてそれは、残念ながら、そう多い数ではありません。*1ですから、大多数の人にはそういう意見は届かない。



こうして、犯罪を低下させ粗暴な行為を減らし人権感覚を広めてきた*2有益な教育は改められ、よくて無益、悪く言えば行き当たりばったりで有害な教育施策が一段と進み、そして有益な改革は一層後回しにされていきます。そして、「道徳」と名付けられたある種の歪んだ「伝統」的価値観の押し付けが一段と強化されます。*3
これは大げさな話ではありません。現に今、起こっていることです。
そして、現に起こっているそれらを押しとどめる方法が、多分ない、その絶望的な事実が、私にこの記事を書かせています。本当に、悲しいくらい、どうしようもない。



インターネットの「神話」からほの見えるのは、私に言わせれば、まさに大昔から何一つ変わらない日本そのものの有りようです。私たちは、昔から何一つ変わらない。変えることができていない。それが、私たちを惑わせている問題の根源であり、安藤美姫選手への批判も結局はその現れの一つなのだ、と私は思います。*4



追記
コレを書いたあと、こんな記事が…
東京都内、高齢者の万引増加 初めて少年上回る
いや〜。
もう、なんというか。

*1:書きながら、自分はどれに当たるのか考えたが、おそらく2番目であり4番目なのだろうと思います。日本人は西洋的に言えば「野蛮人」でしょうが、それは西洋が日本の「文化」を理解できなかっただけです。けれど、今や日本人ですら…特に「日本の伝統ガー」と言う人が、日本の「文化」を西洋の目を通してしか理解しようとしておらず、それ自体が問題だ、と私は考えています。

*2:それらは、洋の東西を問わず広められ行われるべき、というコンセンサスを、人類はこの間広げてきました。

*3:安藤選手への一連の批判は、「母親」神話に由来するという意味で、明らかに明治以前の日本の伝統そのものではないと思います。例:「江戸時代、子育ては母親の主たる役割でなかった。」良妻賢母の光と影など

*4:思わせぶりな言葉で誤解させたくはないので書いておきますが、これは、安藤選手への批判が些少なことだと言いたいのではありません。安藤選手への批判を批判するなら、自らのもつ同根の偏りに、一層敏感になる必要がある、という話です。

「光圀伝」(冲方 丁)読了 −「そのendか」と呟く

光圀伝

光圀伝

(※以下の記述にはネタバレを含みます)

最近電車通勤で、それなりの程度の時間でさーっと読めるモノを、と思って冲方 丁の短編集「OUT OF CONTROL」を余り期待せずに読んで、というのも、そもそも昔昔「マルドゥクスクランブル」をとても面白く読んだのですが、「天地明察」が有名になったときに買って最初の方だけ少し読んで、なんだか余り面白くなくて放り出して、「やっぱりこの人に時代小説は無理だから、素直にSF書いててくれればいいのに」とか失礼なことを思って、だから「光圀伝」も特に興味をもたず放置していたわけです。
ところが、「OUT OF CONTROL」に入っていた諸作が思いの外面白くて、しかも「天地明察」の原型短編と言われる「日本改暦事情」が特に面白くて、「え。天地明察ってこんな話だったのか。つーか面白いじゃないすか」と思って、本棚から下ろして読んだら、結局短編と同じ話だったんだけど、それでもやっぱり面白くて、そのままの勢いで「光圀伝」まで買って読んでしまったのです。*1
で、感想。『なんというギャルゲ。しかもハーレム
ギャルゲというのは、おおむね主人公とそれに関わるヒロインが出てきまして(しばしば複数)、そしていろいろ紆余曲折があって、最後に誰かと(もしくは複数と)結ばれたり、結ばれるのに失敗して無念を味わったりするゲームです。特徴は、「ストーリーはおおむねシンプルで、出会って、いろいろあって、結ばれる、以上。」「ヒロインキャラクターはそれぞれ属性(メガネとかツンデレとかお姉様とか妹とかアイドルとか…)をもち分散配置される」「キャラクターとの恋愛を実らせendingにたどり着く(『攻略』という)ことが目的」…etcの特徴をもちます。ねらっていたヒロインと仲良くなれたり、しかし実はルート選択に失敗していて、全然親密になれずやきもきしたり、そうしている間にもタイムリミット(卒業とか、転校とか)は刻々と近づいてきて、果たしてハッピーエンドのendingにたどり着けるのか…とプレイヤーははらはらする、まあそういうゲームです。*2
このお話は、まあ一応時代劇なのですが、主人公「光圀くん」は、親との関係に鬱屈したものを抱えていて、そのせいでうまく恋愛できません。典型的なギャルゲ主人公です。でもって、彼はとにかくご都合主義的な出会いによって、理解に溢れ頼れる兄や、心から信頼できる友人、全てを包み込む天使のような妻、神とも仰ぎ見る道の先達、有能な美人秘書、尊敬できる師、自らを慕う子、仕事を任せられる可愛い部下…などに囲まれます。ハーレムです。ですが、endingにたどり着くころには、これらのほとんどの人が死んだり殺されたりして退場していきます。まあ、ほかのヒロインにはそれぞれどこかで退場してもらわないとENDINGにならないので、それは仕方ありません。お話が進行していくにつれ、意外な人が退場したり(死んだり)、「この人とendingを迎えるんじゃないかな」というフラグらしきものが見えたり、結局それはブラフだったり、と読み手の気を揉ませます。この辺り、ギャルゲとしてよくできてます。ベタだけれど、はらはらさせる。途中、前作の主人公がちょい役で出てくる辺りも、ありがちですが良いサービスです。さて、一体光圀は、自らの死を迎えるとき、誰とともにいるのか?(誰END?) はたまた独りぼっちで死を迎えるのか?(BAD END?) はらはら…どきどき…。そして……
やがて迎える感動のツンデレEND。マジか。なんという俺得。ハーレム系のツンデレEND、大好きです。ごちそうさま。いやー面白かった。あと、ラストで物語自体に仕掛けられた歴史への伏線が明かされるあたりの厨二っぷりも、なかなかよかったです。よくできた作品でした。複数ENDはなくて一本道なのですが、低価格(1,900円)帯のゲームとしては、かなり良心的な作品と言えるのではないでしょうか。
しかし、これ一応時代小説なんですよね。

いやー。
光圀って本当にこんなギャルゲ主人公だったのですか? というより、ちょっとギャルゲナイズしすぎ、と考えてしまってちょっと醒めるのが、本作の難と言えば難です。ギャルゲとしては楽しいけど、これは時代小説なのか?という。ギャルゲっぽ過ぎる、というより、ほぼギャルゲ。まあ、面白いからいいんですが、「神のみぞ知るセカイ」の"落とし神"桂木桂馬くんならば、「これは○○というゲームのヒロイン○○のパターンだな。こっちは××の…」と全て説明してくれそうで、いかがなものかなあ、と。*3
しかし、まあ、これは逆に考えるべきなのかもしれません。ギャルゲはついに名実共に文化になったのか、と。たとえば、S.スピルバーグがどこまでもハリウッドの手法で「プライベートライアン」を撮り「シンドラーのリスト」を撮り、最近では「リンカーン」を撮り、実に小難しい主題をこんなに分かりやすく2時間にまとめちゃっていいの?という批判を受けながらも、今や歴史映画の重鎮然とした顔をしているように、娯楽の手法であっても(というよりは娯楽の手法とされていたものだからこそ)それを十全に身に付けた人は、アートと言われるものを作り出すに至るのかな、と。
ライトノベルの世界から出発した冲方 丁が、それを捨てるのではなく、その手法で時代小説を切り開いたというところに、とても面白さを感じました。ひょっとすると、極論ですが、次世代の文化とは、常に前世代の「単なる娯楽」の中から生まれてくるのかもしれませんね。

*1:ちなみに、読み返しても、その放り出した最初の部分だけは、やっぱり面白くなかったです。あそこだけ、なんだか主人公のキャラが軽く、違和感があります。あの短編が先にあるというのに、なんでああなるんだろう?

*2:説明はかなり適当です。

*3:茶化してますが、冲方 丁、やっぱり優れた書き手です。名台詞に何度かうならされたり、電車の中でも何度か泣かされました。

基本と応用

以下の記事について。一応国語の畑の人間として、一言コメント。
カギ括弧の意味について
ekken氏が、以下のツイートに対して、それは常識なのか?と疑問を呈しておられる件。

『あままこ※現在のんびり中 @amamako (愚痴)頼むからさー……鍵括弧付きで言葉を使ってる時は、その鍵括弧が特別な意味持っていることを前提において読んでくれないかなぁ……現代文読解の基礎じゃん……』

ekken氏は、これに対して

・義務教育における引用符の意味に、上記は入っていない。
文化庁の「くぎり符号の使ひ方」*1

の二点を踏まえて、カギ括弧の特別な意味は、「読書や作文の習慣から身につくもの」であり、「ブログやTwitterを閲覧している人」みんなには共有されない。だから、

文脈によって判断できる場合もあるとは言え、短い文章の中で何の説明もなしに「カギ括弧をつけただけ」で「特別な意味があることを理解してくれ」ってのは、ムシが良すぎるのではないでしょうか。

気付いてくれた人、分かる人にだけ通じれば良い、というのならばともかく。語句に何か特別な意味を持たせたい、そしてそれを読み手に的確に伝えたい、ということであれば、その「特別な意味」を説明すべきであって、説明なしに「カギ括弧をつけたのだから特別な意味があるんだよ、そういう前提で読んでくれよ」というのは書き手の傲慢でしかないと思います。

…と結論づけておられます。



私の直感的な感想は、あままこさんに近いと思います。「そんなの『常識』じゃねーの(sigh)」という。でも、ekkenさんが言うことにも理由はあるわけです。



そもそも、これ、一見あままこさんへの反論のように見えますが、実はそうではないですよね。だって、「実際に僕も作文の中でよく利用している」というekkenさんは、それが「現代文読解の基礎」であることは何一つ否定してないわけですから。問題は、〈「現代文読解の基礎」だからといって、読み手にそれを理解しろというのは、無理筋じゃないかな〉という点であって。その点に関しては、私も、ekkenさんに同意すべきではないかと思います。*2



というのも、自分自身、以前、ブログを書きながらしみじみと、〈皮肉〉というのは、この界隈では通じないのだなあ、いや、通じないというより、ここでは〈使用が禁じられている〉のだなあ、と感じたことがあったからです。皮肉を言っても、通じない。それどころか、通じないような言い方をする方が悪いのだ、という言論が、ここでは大手を振ってまかり通っています。誰にでも(本当に誰にでも)分かるように書いていなければ、読み手がどのように誤解をしても、誤解をさせた書き手に責任があるというモンスター議論。
これは、別にekkenさんを批判しているのではありません。そういう状況が現に存在すること自体において、私はekkenさんが述べていることを否定するつもりはありません。ただ、そういう状況を肯定的に見るか否定的に見るか、という点においては、やはり違いがあるのかもしれません。
個人的には、皮肉に象徴されるような、「基礎・基本」から一段上がったレベルで使用される「応用編」の言葉の使用や、そのレベルでやりとりされるコミュニケーションは、書き文字によるコミュニケーションが閉じられたサークルの中にとどまっていた時代の異物となりつつあることに、深い懸念と危惧を覚えます。だって、こんな風潮があと数十年も続けば、そのうち、昭和初期ぐらいの人の書いた文章の意味が、全然通じなくなるでしょうからね。……けれども、そんなことは、言葉の歴史を振り返れば、当たり前のよくある現象なのでしょう。実際、江戸時代くらいの一般の知識人がさらさらと書いたような随筆ですら、今楽しんで読んでる人などほとんどいないですしね。*3そんなふうに埋もれ消えていく思想やことばや文化は、歴史上どれほどになるか。
だから、極端な言い方でまとめると、〈猫も杓子もじいちゃんも小学生も、ネットを介して自分の言葉を世界に発信できる「よい時代」になった以上は、せいぜい高校生レベルの現代文読解の常識ですら、知識として前提することを許されないよ〉というekkenさんの主張は、「分かるけど認めたくねえなあ」という感じです。分かっていただけますか、この感じ。



というわけで、私は、ekkenさんのおっしゃることは「現象として」は理解します。一方で、あままこさんが言うことも「筋がとおっている」と考えます。まあ、仕方ない。私は、そういう「時代」そのものが嫌なんですから( ´ー`)。…なんというか、まさに、自分で言いながら古イ奴ダトオ思イデショウガ(「傷だらけの人生」)という感じを彷彿としております。



というわけで、あままこさんも、今度から皮肉を言うときには、文末に「(皮肉)」とつけるとよいと思います。(皮肉)

*1:戦後すぐに出たもので、今では時流に合わない部分もあるが、一応文化庁の国語施策の中に今も位置づけられているので、ekkenさんがオーソリティとして引用してくるのは正しい。ただ、文化庁は、別に、「これ以外の使い方をしてはいけない」と言っているわけではない。

*2:もっとも、もとのあままこさんの文章のカギ括弧が、皮肉の意味で用いられていたとしたら、ekkenさんの批判も当たらないことにはなります。だって、皮肉は本来「分かる人にだけ通じればよい」という表現なわけで、「誰にでも分かる」なら、それは皮肉ではなく単なる悪口です。皮肉の意味を「誰にでも分かるように書け」と言っているなら、的外れな批判になってしまいます。

*3:たとえば、石川淳の「雅歌」とか読むと、ほんの60年程前の世代の人が普通にできていたそんなことが、今の自分らにはできないんじゃないかなあと思うわけです。参考:石川淳と村田了阿の季節−電気石版ノート

僧桃水

記念すべき紹介第一号は、流浪の僧、桃水さんです。この人のエピソードに関しては、もともと面山和尚という方の書いた「桃水和尚伝賛」という、別の本にまとめられていているものから要点をひろって書いたものだ、と、伴さんが書いておられます。なんだか似たようなことやってますなあ…。そういうわけで、つまり私の書くのは引用の引用、抄出の抄出、いや、ダイジェストを更にダイジェストして肉付けして…と、もはや本来の姿を残さないシロモノになる可能性があるわけです。
しかし、ダイジェストとは、もとのものの本質を突く一点、そのエッセンスを抽出するところに本来のねらいがあるわけですから、私の作業も、よく言えばまあエッセンス・オブ・エッセンス、と、まあそんなようなものになるのではないか。ならないかな。なるといいな、と。でもちょっと心配なので、そう言いつつも、少し他の本の内容とかも交え加えて、分かる範囲で書いてみようと思います。小心なので。


さてこの桃水和尚、先の面山和尚の「桃水和尚伝賛」によれば、少年時代は「頭は良かったが見た目ボーっとした感じ(資性聡利と雖も容貌魯鈍に似たり)」と言われておったようです。子どもの頃から仏像で遊ぶ、など常と変わったところがあったこの子を、親は寺に預けることにし、7歳で肥前武雄の禅林寺に入りました。そこで宋鉄禅師という名僧に師事し、20歳で各地をめぐる修行に出、35歳の頃再び宋鉄の下に戻り10年修行を重ねた。ところが、その後ふっつりと行方を断ってしまったのだそうです。さて、彼の胸に、一体何がうずまいていたのか。



若き日の修行時代について桃水は「修業時代、見かけた僧侶は、みな名誉と利に忙しそうであった(行脚の当時、名利閙(さわが)し)」と述べたと伝えられています。また、宋鉄の下に戻ったころ、宋鉄が弟子たちに「五戒のうち食欲色欲睡欲を戒めるのは、修行をしておればそう難しくはないが、僧でもともすれば名欲と利欲にはおぼれることがあるから気を付けるのだよ」と教えるのを聞いて、「当たり前なことをおおげさに…」と呟いたこともあったとか。*1



思うに、桃水にとって仏道修行とは極めて自然に求めるもの、純粋なものであって、だからこそ、修行を重ねれば重ねるほど、世間とのずれは言うまでもなく、他の修行僧とすら相容れない自分を発見し続ける失意の連続であったのではないでしょうか。彼の失踪の原因をその辺りに考えるのは、それほど的外れではないでしょう。というのは、畸人伝が紹介する桃水のエピソードは、その後、流浪生活の中で乞食僧の生活を送る桃水の姿が偶然発見された数回の出来事だからです。


桃水が筑後におった頃の弟子の尼がいた。師の教えを守り、ぜいたくをせず、修行に邁進する彼女は身の回りのものも、檀家からの寄進で購入するのでなく自ら作り、働く立派な修行者であった。彼女は桃水失踪の後、桃水の跡を求めて訪ね歩き、ついに京都四条河原で乞食に混じり病人を看護する師の姿を発見する。涙を流しながら、師を拝み、背の荷物から師匠に渡したのは、自ら糸を紡ぎ、織り上げた布であった。
「先生、戻ってくださいとは言いません……でも、その身にかける布を、せめてお取りください」
「今の私には不要なものだ」
「先生に必要なければ、どうしていただいてもよいのです。先生に差し上げるために織ったものですから、差し上げたものを捨てなさっても私は恨みません」
「そうか…」
布を受け取った桃水は、その布を看護していた乞食に着せた。それを見た周囲の乞食は驚いて「あんたえらいお人やってんやなあ!」と拝み始めた。すると、桃水はいつのまにか姿を消し、二度と戻らなかった…。

また別の弟子が三年間師匠を探し、再び乞食にまじる師匠を見付けた。
「先生、どうしても戻られないなら、私も同じ姿となって一緒に参ります」
「帰れ」
「帰りません」
どうしても言うことを聞かず、無理についてこようとする弟子に、桃水は仕方なく、それでは俺がどのようにしているか見せてやろう、ついてこい、と言った。弟子がついていくと、行った先では一人の乞食が死んでいた。
「おい、埋めるぞ。手伝え」
死体は既に臭いを発していた。弟子はもちろん黙って従った。行き倒れの死体は見たこともある、弔いをしたこともある。自ら手をとって埋めたことはないが、桃水の下では畑仕事もやらされた。体を使うことを厭うことは、無論ない。だが、飢え病んだ男の死体に手を触れたときは、さすがに少しひるまずにはおれなかった。弟子の様子を見るような見ないような様子で、桃水は手早く指示し、埋め終わると水をかけ、経をあげた。弟子は、久しぶりに師匠とともに経をあげ、充実感に浸りながら、(これで、少しは認められたろう…)と得意であった。
経を上げ終わると、弟子に向き直った桃水は「それではお布施をいただくとしよう」と無造作に言った。
「布施?布施を取るのですか」弟子は意外の念に打たれた。この死者は意外と名のある死者か何かであったのだろうか。あるいは、隠した財産でもあったのだろうか。乞食の外見をしていても、万一のために意外な所に銭を隠しているものもいる。師匠はそのことを言っているのだろうか。
「これよ」
と、先程の乞食が倒れていた所に座り込む師匠を見ると、欠けた椀と草の葉の上に、残飯、あるいは吐瀉物とさえ見えるような茶色くなりどろどろとした臭い飯の塊のようなものが見えた。桃水は無造作にそれを口にすると、
「どうした。お前もいただけ」
と勧めた。弟子は、桃水の横に座り、黙ってそれを口にした。しかし次の瞬間口中から湧き上がる嘔吐感を止めることができなかった。ひたすら吐いた。吐きながら、泣くしかなかった。
「分かったか。お前には無理だ。やはりここで分かれよう」
そう桃水が立ち去ったあと、ひとしきり弟子のうめく声だけが響いた。

なんというか不器用な人だなあと。良い意味で、ではあるんですが。
人が嫌い、というのはでないけれど、本気で純粋に一つのことに打ち込むときに、人と連れ立つことのできない人というのは確かにいて、この人もそういう人だったのだろうなあ、と。弟子からの慕われ具合を見るに、決して意地悪とか嫌な人だったとかではなく、本当に良い人だったのだろうとは思うのですよね。



その後、大津で草鞋売りをしていたとか。行脚を続けた彼ですから、きっとその辺のわらで草鞋を作るのも上手だったのでしょう。街道をゆく駕籠かきや馬子に評判がよかったとか。その頃であったおとうと弟子には、「おめえ、殿様連中にもてはやされていい気になっちゃいかんぞ」と言ったとか。あるいは、また、ある人が年老いた彼を哀れんで(えらい僧とは知らずに)阿弥陀仏の絵をやると、彼はそれを自分の住む小さな小屋の壁にかけ、次のような歌を詠んだそうです。


せまけれど宿を貸すぞやあみだ殿
 後生たのむとおぼしめすなよ

(狭い小屋やけど、宿を貸したるで、アミダさんや。せやけど恩を売って来世で救ってもらおうという了見とは違うで。そこんとこ、分かっといてや。)

阿弥陀仏にも、意地を張らずにはおかない。



さて、その後、京に戻り行乞をしていた桃水に、ある人が「ぜひ、うちに来てお経をあげてください」と言ったのですが、「わしゃ葬式坊主と違う」とすげなく断られたので、その人は一計を案じて次のように言ったとか。
「うちは使用人が多いので、残飯がたくさんでて腐らせてもったいない。これに酢をあてて売っていただければ、行乞なさるよりよいのではないでしょうか」
そうすると桃水は
「なるほどそれは良いことじゃ。捨てるものは、拾おう。わしは鮓売りのじじいになろう」
…と言って、酢屋道全と自称してその後過ごしたとか。



意地張り、一代。それは、同時にあまのじゃく一代、の人生であったようにも思います。なかでも



捨てるものは、拾おう。



その言葉に、何か、彼の「根」のようなものが見えてくるのではないでしょうか。
人が捨てるものを、おれが、拾おう。今の世の人は、あまりにいろいろなものを捨てすぎる。大切なもの、なくしてはならんものが、次々に捨てられていく。
人を救うとか、導くとか、そういう大層なことは、自分の道ではない。ただ、目の前で粗末にされるもの、捨てられるものを見過ごしてはおけないだけなのだ。わしは一生乞食坊主だ。



……そんな彼のつぶやきが、伝記の向こうから聞こえてくるような気がします。反骨の僧、桃水。確かに一人の畸人(かわりもの)でした。

*1:ここまでの話は、こちらのサイト「新千暖荘」の記事を参考にさせていただきました。ありがとうございました。

ふと思い立って

何となく興味に引かれて岩波文庫の「近世畸人伝」を購入して、風呂場で読んでいます。

近世畸人伝 (岩波文庫)

近世畸人伝 (岩波文庫)

最近、あんまりダイアリを書くことがないので(書きたいことはあるが仕事上書けないことばかりなので)、その代わりにまあ少しでも何か残しておこうかなあ、と、畸人伝から面白かったエピソードやなんやを、少し現代風に分かりやすくアレンジしたりして紹介してみたいと思います。
まあ、のんびり風呂に入って眠り込みもせず読めるとき以外は書けないので、それはそれであまりハイペース更新にはならないと思いますし、そのうちやめるかもしれんのですが…。


ちなみに、近世畸人伝、本文も入力した方が良いのかなあと思って調べてみると、幸いなことにこちら
国際日本文化研究センター「近世畸人伝」
で全文が読めるようで、興味のある方は、本を購入するか、そちらに行ってみるとよいと思います。
ありがたい時代ですね。