眼と視線と(僕が映画を見ない理由)
- 「僕が映画をみない理由」http://d.hatena.ne.jp/solar/20050105切込さんのブログ(http://kiri.jblog.org/archives/001321.html#more)でリンクされていて、面白かったのでトラバをとばしてみる。「映画を(好んで)見ない人の映画論」なわけだが、それが一つに視線の問題なのではないかという意見。しかしこれは、
「映画館」というものがもっとも隠蔽しようとしている構造であり(要するに明かりを消すのは我々観客の「見られる身体」を消すという作業なわけだから、映画を見るのに最も余計なものとは「観客は見られている」ということなのでは。)それゆえ「映画を楽しむ」という観点からは最も遠い論考にならざるを得ないだろうなぁ、と。ただ、そうするとまさに「批評」が「自立」してしまうんではないだろうか。映画館・配給興業主、観客のいずれの立場からも遠い立場に立つのだとすれば、仲俣氏は、どういう立場から誰に向けて何を語ろうとしているというのか。
- これに切込氏の論を重ねてみるならば、ひょっとしたらそれは批評家ではなく作り手側の視点なのかもしれないとも思った。両氏とも「見る楽しみ」を語らないことにおいて共通しているわけだけど、要するに映画を見ない理由は、(実際に作っているかいないかではなく)クリエイターとして見ると映画を楽しむことはできない、という一点?年に一本くらいだけ映画を見る平均的日本人であるところの自分が「映画を見ない理由」というテーマで何か書くとしたら多分一言で終わる。「忙しいから」。それは要するに私が作り手でもない批評家でもない一人の凡人に過ぎないからなんだけども。しかし、我々のような人を見て更に楽しむ切込さんのような人もいるのだとすれば(切込分析風に言えば、芸人・人垣・外の人混み、の中で自分は外の人混みに位置して、切込氏は人垣の中で芸人でなく人混みを見てるということ、と理解したのだけれども)、それはまた振り返って我々の新たな立場を生み出すのではないかとも思う。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2004/10/01
- メディア: 文庫
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- (追記)若い読者のための短編小説案内(村上春樹)を買う。「作り手側の視点で戦後日本の短編小説を論じる」という内容に興味を覚える。
- つまりそのときそういう論考にトラバ貼ってる我々の立つ位置は、素人として参加していながらその行動を見られる側に置くことを意識したものになるわけで、言ってみれば阿波踊り踊ってるようなものになるのではないかしらん。もちろん「踊る阿呆」はいずれ「踊らされている」のであり、批評家が「見る阿呆」であるとして、「踊る阿呆」と「見る阿呆」(と「踊らせている阿呆」)を見ている切込氏の存在に「踊る阿呆」が気づいてしまったとき、いや最初から気づいてはいるわけだけれどもそれでもなんか元通り踊りにくくなって悔しいですね。それでも意識するだけ馬鹿らしいから踊るんだけれども。
- 「ひょっとしたら研究者は小説の期待された読み手ではないのではないか?と最近思うことがある。」…という言葉を昔、確か小森陽一さんの本で読んだ。そのときは「期待された読者、という問題設定自体がどうよ?」とかわかりもしないのに糞生意気なこと思ったわけだけど、まあ研究の道具として有効か否かはさておいて、そりゃ読者を期待しないと小説なんて書かないよね。
- で、問題は「研究者として読む読み」と「一読者として読む読み」は重なりうるのかってことなんだけど、もちろん何の研究をするかによるんだけど重ならないとまずい?のかな? やっぱり。たとえば「○○さんの小説を読んでいて関数体上のラングランズプログラムの解決*1を思いつきましたよ」とか言われて、小説家は嬉しいのか嬉しくないのか、今ひとつよく分からないなぁ。たとえ本当に、偶然じゃなくて何か関係があったとしても。
- 閑話休題1。デリダの「視線の権利」ISBN:4886790240 って今でも右綴じで売ってるんだろうか?
(1への追記)「視線の権利」でぐぐって来る人がいるやもしれないようなので追記。この本、写真がずらずらっと並べてあり、論考が後ろについてます。写真の並び方は、言ってみればマンガのようにコマ割してある…と考えてもらうと分かりやすい。確か現代思想の別冊か何か(注:正確には雑誌「哲学」哲学書房刊、'88年8月特別号、二巻3号、でした)で出てたんだけど、始めて読んだとき妙に違和感があった。ストーリーに沿って並んでいるらしい写真群の時間軸が、ストーリーの部分部分で明らかに前後逆転していたりする。で、よくよく調べてみると、右とじの本だから「マンガだとすると」右上から左下へ時間が流れていくのが自然なはずなんだけれども、どうやらそれぞれのページの中では左上から右下へと時間が流れているらしい。なぜだか分かりますか?これは多分、フランスでは本が左とじだからなんだと思う。フランス版のマンガのコマ割りをみてみると分かりますが、左上から右下へ時間が流れているものね。デリダはそれを意識したんじゃないかな。
…という考察を、購入当時「現代思想」の編集部に送って「左とじ版にして再版しませんか」と訴えてみたんだけど、当然の如く無視されました。悲しい思い出です。今見たら「復刊リクエスト」に載ってたから廃刊なのでしょうけど、復刊するなら閉じの方向をぜひ逆にして貰いたいものです。多分無理だけど。
(追記2)「視線の権利再び」で詳述しました。興味のある方はご覧下さい。