須藤さんちの「ゆず」が永眠されました。

公式HPのお知らせ。少しだけ漫画自慢をさせていただくと、
私はこの人(須藤真澄)のデビュー単行本「電氣ブラン」から初版で持っている。その後ブランクがあいて、「観光王国」「子午線を歩く人」も、発売即購入し、「アクアリウム」の連載が始まったときは驚喜して、毎号2冊ずつ「コミックジャスティス」というよくわからん雑誌(すぐ潰れた)を購入し、切り抜きしたりしたものだ。
女の子のかわいさだけで売る作家であれば、そこまで執着はしなかっただろう。むしろ彼女の持ち味は、画面の端に書かれるろうそく一本の怪しい描線や、魚やキノコや異形の生き物、古道具や怪しい親父や、そういう諸々の世界が描き出す世界にあった。そこが当時の自分をひきつけたのだと思う。
そんな風に、田舎の一ファンに細く長く愛される(ある意味)幸福なマイナー漫画家人生を送っておられた彼女のイメージが強かったので、昨今の「レポート漫画家」状態には逆についていけてなかったところがあった(いけないと言っているわけではない。「おさんぽ王国」も3巻までは買ったし、それなりに面白かった。ただこれ以降自分にとって彼女は「特別な漫画家」ではなくなったということだ。)。
だから彼女の愛猫「ゆず」への傾倒も、おそらくは他のファンとは違って冷ややかにみていたわけだが、たとえば大島弓子氏の「サヴァ」への傾倒がそうであったように、優れた表現者が唯一無二のパートナーに傾倒しあるいはそれを作品化するとき、そこには一種特別な空気が漂う。必ずしもそれが優れた作品になるとは限らないが、それでもそこには「特別な空気」、異種のリアリティーが漂う。それはおそらく日記漫画で自分を語る以上に生々しい「自分語り」だからだ。彼女にとって「ゆず」は確実にそういう存在だったと思う。
リンク先のページから、私は二つの異なった感慨を得た。それは、まず、彼女の中のデビュー時から変わらない細く痛々しい情感が「ゆず」への思いの中に生きていたのだなぁ……という今さらながらの実感だった。「ゆず」を通して彼女はそれを固く守り続けていたのだった。そしてもう一つは、意外なほどの彼女の芯の強さだ。愛猫の死後一月を経ずして、これほどしっかりとした態度表明やお知らせができる作家だとは思っていなかった。そういう作家になるとも思っていなかった。それは「ゆず」がくれた強さなのかもしれない。
冥福を祈ってはいけないらしいので、今はただ静かに見守りたいと思う。