愛知県の通り魔殺人について

犯人の男は、刑務所を出たばかり、更生施設からゆくえをくらまし、数日放浪したあげく「いらいらして」殺人。こういう事件を防ぐにはどうすべきなのか?
まず大前提として、この事件、彼が戻るべき「社会」は彼を受け入れなかった→それゆえ彼は復讐した、そういう意外にも陳腐な図式が多分すっぽりと当てはまる状況であろうと思われますが、多くの非常に過敏な反応が見受けられる所に特徴があります。
その理由は、おそらく(1)その犯罪の態様に見られる「防ぎようの無さ」(2)全く無力な幼児に対し何のためらいもない凶悪な犯行、の二点に集約されるのではないでしょうか。あと、もう一つは「またか……」という感情。
(1)については、色々な意味での「防ぎようの無さ」が上げられます。まず先日の奈良の事件もそうでしたが、基本的にはこれまで都会でのみ多いと思われていたような凶悪犯罪が、これまで名前も出なかったような(一見)長閑な田舎町で起こっていることです。これは、日本全国どこでもこういう事件が起こりうるのだ、という意味で人々に「防ぎようの無さ」を感じさせたと思います。舞台が「郊外のショッピングセンター」という長閑な場所であったことも関係するでしょう。もちろん、無関係の通りすがりにいきなり無言で刺す、という非常に抵抗しようのないやり方も、おそらく多くの人に恐怖を与えたのではないでしょうか。
(2)について、これは彼の精神の有り様という内面への恐怖と、こういう事件がけっして彼一人にとどまらないだろうという社会的心理への恐怖という二面があると思います。そしてそれはともに、「どうやってこういう事件が起きないようにすべきなのか」という、そこのない議論へと人々を導いていくことでしょう。
法的やけっぱちというサイトで、刑法39条をめぐる論議について、「近年の適用例が逆に心身喪失・耗弱者への差別を生んでいるのではないか?」という指摘がありました。なかなか冷静で面白い指摘だと思います。特に「弱者を狙うという一点において、彼らは充分に『判断能力』を備えていると考えるべきだ」というのは、運営上はともかく基本的な論理としては同感です。*1
それを踏まえた上で、klaus1538氏が考える「悪用されない、差別から障害者を守るシステム」を実現するためには、平凡ですがまず社会自身が障害者をもっと知る必要があるのでしょう。心身に異常がある、また知的な障害があるという人が、何をどのように感じてどのようにこの社会で生きているか、それを知っている人が増えれば増えるほど、「障害者を騙る」ことも難しくなるし「差別」も消えていくのではないでしょうか。「排除の論理」はおそらく事態を悪化させるに過ぎない。
しかし、おそらく今回の事件に際しても起こってくるのは、これを「排除の論理」で片付けようとする人々の言説でしょう。いわく警備員の増強、不審者の取り締まりと囲い込み、「安全」な社会を取り戻すために、「教育」の内容変更、刑法の改正や厳罰化等々……。それらはいずれも一言で言って「排除の論理」に他なりません。
心身喪失・耗弱の状態であろうがなかろうが、いわゆる「正常」者であろうがなかろうが、犯罪を犯すことはあります。問題は、こういったコトに対するヒステリックな反応に同調してしまわないこと、またそういった反応をいわば「利用」して人気を取ろうとするデマゴーグの手に乗らないこと、ではないかと思います。
これは、昔からあることであり、今も無くなっていない、それだけのことです。かつてどこかに「安全な社会があった」という幻想に振り回されると、我々がこれまで行ってきた試行錯誤や歴史を全て無視することになりかねない。歴史を見ない社会は必ず誤ります。この事件の一番の教訓はそこではないでしょうか。

*1:「運営上はともかく」というのは、たとえば知的障害者が子供を歩道橋から投げ落とした、という事件などが以前あったからです。その場合彼は子供を子供でなく「投げ落とせる人形のようなもの」としか認識していなかったのではないかと想定されますし、その場合彼の判断能力を「ある」と想定するのはおそらく不当でしょう。しかしそう考えてあらためて振り返ってみると、今回の事件の場合とそのケース、果たしてきちんと線を引くことができるのでしょうか?…という疑問があるからです。U容疑者に果たして子供を子供という人間、として認識する能力があったのでしょうか?ちなみに、私はこれを「彼は処罰されるべきである」という前提で書いています。その点は誤解なきよう。