オリジナル?〜徳保氏へ

レスありがとうございます。一方的に話を振ったのに、また「自分としては得る物はなさそうだ…」と(おそらく)判断しておられるにも関わらず、放棄せずに相手をしていただいていることに感謝します。
前回までで、双方の「立脚点の違い」というのが見え、またその「立脚点の違い」はある程度埋まらないものである以上、そこにおいて同意に至ることは難しい……という話が出てきたと思います。しかし一方で、双方の同意点と思われる点が見えてきたこともまた事実だと思います。今回はそこをベースに話をしたいと思います。
その同意点とは、双方とも"権利を放棄することで生まれる価値(jo_30)"、"文化の振興の為に価値の独占は許容されるべき(徳保氏)"という風に、その主要な観点の一つとして『文化が栄えることの重要性』をあげていることです。これについては(手段についての見解は違っても目的については)対立は無いものと考えますがよろしいでしょうか。「文化の振興」はつまり社会的財の創出であり全体の益になるという意味で『正しく』、かつ文化はそれが生まれるための環境を適切に整備したり、そこからきちんと利益が得られることを保証して人を継続的に集めたりするという風に、社会がそれを援助する必要があるという考え方です。つまり、経済的には、文化もまた食肉や穀物と同じく「人の心」という畑や牧場に生まれる社会的財(生産物)であるという見方で、生み出された文化それ自体に高く崇高な価値や目的があるにせよ、そのこと事態はここでは問題ではないと考えるということです。生産物…それも嗜好品ではなく生活必需品として考えるという考え方。

そう考えると、まずjo_30の言う「権利を放棄することで生まれる価値」があるのか無いのか、ということが一つの対立点になると思います。この場合、「多少」が問題なのではなく、「オープンソース開発」が実際に「独占的開発」より優秀なソフトを制作し得るか?という問題で考えてみれば、価値が生まれる「こともある」位で手を打っておくのがいいかと思いますがいかがでしょうか?
オープンソース開発」が万能だとは思いません。万人のために必要なソフトが、常に万人にとって魅力的とは限らない。トータルで見ればマイナスとしても、人は目先の利益に引きずられるし、そもそも「個人に責任を背負わせない」ことがその目標なわけですから、「責任が求められる仕事」には明らかにオープンソース開発は無力です。たとえば〜までに〜という仕様のソフトが必要だ、というとき、よほど共通の関心や危機でも無い限りは、オープンソース開発に任せるより素直にプロに任せた方がいいはずです。オープンソース開発の有利な点は、ごく趣味的なジャンルに、時間と労力を(採算を度外視して)無制限に使えるという点にあります。また、関わる人間のモチベーションの高さや、関わる人数が保証する動作検証やフィードバックの高さなどは、できあがるソフトの質を(採算ベースの場合よりも)高めてくれる場合がありうるでしょう。「特許制度」が発明をおしすすめたことも歴史的な事実ですが、「特許制度」がある以前から様々な「無名の優れた発明」が人類の生活を高めてきたこともまた歴史的事実です。それらはいわばオープンソースで開発されてきましたし、そのことは工業などの世界だけでなく芸術などの世界でも同じです。『そのどちらか一方だけが(こそが)価値を創出する』という偏った主張をこそ、我々は避けなくてはならないのではないでしょうか。

だから、理想としては両者は共存することが望ましい。しかし残念ながらそれは大抵の場合かなわないのです。なぜなら、その二つの思想はしばしば現実社会で利益対立してしまうから。今日の社会では、大抵の場合一方が一方を踏みにじらずにはおれないからです。従って、両者が共存するためには、両者が「別々の領域」で活躍し、互いの領分を侵さない(そしてクロスする場合には、利益対立が起きないよう慎重にする)というのが望まれることではないでしょうか。電車男の事例が出ていましたが、電車男への反発が最終的に「毒男板」のレベルを超えなかったのは、あくまでそれが「ネットに配慮した形での展開」であったからではないでしょうか(先に例にあげた墨香オンラインモナー使用も)。今のところ「電車男ブーム」は2chに取って(住人の住み心地等は別として)プラスであったと思うし、その限りにおいてそれは許容されてきたのだと思います。たとえばいきなり「電車男そっくりのストーリーのドラマをあるTV局が別名で発表…2chには一切の断りも言及も無し」という展開であったら、いかに徳保さんが「それは社会的にはプラスであり認めるべきである」と主張したとしても*1、あきらかに反発は今回と同じく社会問題レベルで起こっていたでしょう。

そんな風に「互いの領分を侵さない」ようにするのは、要するにネットが第二第三の「金の卵」を生む存在であり続けるためにも必要なことだと考えます。オープンソースで開発していたソフトが次々と第三者によって勝手に権利取得され商売にされ社会がそれを認めてしまえば、オープンソース開発をするコミュニティ自体を滅ぼしかねません。それは社会全体にとっても「益」とは言えないと思います。*2今、今回の問題の成り行きを息をひそめてみつめている人々がいるだろうことを、私は強く危惧しています。avexの行為がもし許容されれば、第二第三の"わた"になろうと待ちかまえている人々、次にどのキャラをパクれば売れそうかなと第二第三のavexを狙う玩具系会社。その先に「文化が振興する」未来があるとは、私には思えない。それが社会的財の増大につながるとはとても思えないのです。
また、ここ10年ほど「著作権意識」が非常に高まった現実世界とは逆にネットでオープンソース的な動きが盛んだったのは、結局人々がそういう二つの世界の「バランス」を強く求めたからだったのではないかと思います。最近、著作権の過剰な保護が創作の弊害になることが危惧されていますが、その主旨はおそらく徳保さんがおっしゃる「文化振興のためにある程度のパクリを許容すべき」だということにあるのでしょう。私はそれに加え「パクリにもルールがある」と訴えたいのです。そのルールを無視した「パクリ」を看過すれば、それは文化を振興するどころか破壊してしまう可能性がある。*3二つの世界がバランスを取ってこそ文化は振興すると思うのです。今回の問題を最初に知ったとき私が感じた危うさを正確に分析すると、そのバランスが失われることへの危機感…というものに近かったような気がします。
下の注にあげたような「オリジナリティとも言えないレベルの剽窃物」であったのまネコの独占を法的に取り締まれないのは、それが「無名の共同者による集団的制作物キャラクター」という現行法で扱いにくい対象であるからに過ぎないと思います。モナーに明白な「著作者」が存在すれば、avexの行為は法的にも許容されない。avexを取り締まれないのは法に問題がある…と言ったのは、現行の商習慣や法運用に対する文句ではなく、そういう「新しい概念への対応の遅れ」の問題を言いたかったのです。

(追記)今回の話題に近いと思われる話の乗っている日記まとめサイトで紹介されていました。参考まで。

*1:そう主張されるのかどうかは分かりませんが

*2:前回私が「むしろ、あえてその世界に企業が踏み出すことに大きな意義」がある、と書いたのは、企業が積極的にその「自分たちと異なるコミュニティの存在をこそ認めるべき」という意味であり、「2ちゃんねらーにCDが売れなくなるから損」というだけの話ではないつもりだったのです。上手く伝わらなかったことを申し訳なく思います。

*3:今回のavexの「パクリ」が看過できないルール無視の「パクリ」だ……というのが、木村氏や津久井氏のいう「狂気の沙汰」「汚い」という批判の肝なのではないでしょうか。彼らはクリエイターだからこそ、「パクリのルール」についても厳密に考えており、avexのプロデューサーはそのことに余りにも鈍感になっていたと私は思います。許されないパクリ…たとえば「どう考えても見分けがつかないレベルの真似(というか剽窃)」行為などがそうでしょうか。あちこちでみかけると思いますが、最初に発表された「PVキャラをそのまま使った『のまネコ』」がいかにモナーそのものであったかというのは、たとえばこれ(http://f.hatena.ne.jp/jo_30/20051008215818)を見ていただければ分かると思います。どれがモナーのまネコか完全に判断できるのは、画像のソースを知っている人間や細かな画風から書き手が誰かまで推測できる人間くらいではないでしょうか。