まとめとお礼〜徳保氏に

まず最初に徳保氏に対し、ここまで話につきあっていただいたこと、そしてねばり強く「双方の意見の着地点」について考えて頂いたことを感謝したいと思います。
少し私事を述べさせてください。「ブログは議論のツールである」という意見があり、実際「掲示板での議論の不毛さ(終わらなさ)」に疲れてブログに移行した人間としてはうなずけることも多いのですが、それでも「見られる形に議論をまとめる」労力自体が減少するわけではありません。むしろ、積極的に議論をしかけ/しかけられやすくなった分、むしろ疲労は増大する傾向にあると言えるでしょう。私自身も、ここしばらくの、二、三本の議論がちょっと平行しそうな状況の下で、あっという間に締切りを複数抱えた作家のような、好きで始めたことにもかかわらず逃げ出したくなるようなプレッシャーを感じたりしていました^^;。もちろん、議論することは嫌いではありません。しかし、もしそれが最終的に勝ち負けという結果しか(それも自己満足的な)得られないゲームであれば、これほどの時間と労力を費やしはしなかったでしょう。今回の議論を始められたのは、徳保さんというお相手を得て、そこに何かあとに残る物が生まれるという(たとえ漠然としたものであっても)確信が得られたからです。逆に、徳保氏には深い申し訳なさを感じています。いきなり通り魔に襲いかかられたように議論をふっかけられたわけで、まさに青天の霹靂であったことでしょう(徳保さんのブログが、決して「のまネコ関係」ブログでもなんでもないことは承知しております…)。いわば全く本業と関わらないことに、おそらく多大なお時間をお使い頂いたことと思います。私自身は非常に多大な示唆をいただいた今回の議論が、徳保さんご自身にとっても必ずしも無駄な時間ではなかった…と感じて頂けること(そして実際そうであること)*1祈りつつ、私の側からは最後のまとめに入りたいと思います。
SafariKHTMLの件
事情は多分徳保さんの方がお詳しいことでしょうから、またどこかで「8月の大きな進展」について教えて頂ければありがたいです。両者の対立点にどのような解決案が持ち込まれたのか興味があります。
・対処について

私は私の立場から、まず批判しました。しかし「説得は不可能」と諦めている通り、結局のところ、彼らとうまく付き合っていかなければ、有望な市場のひとつをむざむざ見逃すことになります。

なるほど「説得は不可能」はそこにかかってくるわけですね。そういう意味ならよく分かります。それを踏まえて「西村博之さんに相談するのが最適だったろう」という判断になることについても同感です。徳保さんのおっしゃるような「現実的な妥協策」を練る上でも、あるいは私が先に述べた「感情的な配慮」という意味でも。

そもそも商標登録はダメだ、些細な違いにオリジナリティは認めない、となると、私は妥協できません。今回、諦めるのは、事の経緯からして仕方ない。でも一般には、認められるはずだし、認められてきました。それをひっくり返されては困る。

今回徳保さんと話し合って、まさにこの微妙な点に線引きができたことが私の中では収穫でした。私なりにまとめるならそれは、「商標登録などをして独占販売しようとすること」と「オリジナルであると主張すること」の間に線引きができたということです。前者は法律問題であり後者は感情的な問題。そして両者への配慮ができるならば利益衝突を回避することも可能でありうるし、我々は積極的にその方策を探っていくべきだということです。
そしてまた私は、id:Dryad氏のところ(@「パクリ論争と帰属」)で、次のようなことを書きました。

私は「オリジナル」とそうでないものの違いは、歩幅と方向の問題であると思います。未来志向か、単に後ろ向きか(方向)、そして原典から十分な距離の跳躍があるか無いか(歩幅)。それが原典を持つこと自体が問題なのではなく、方向と距離…つまりベクトルが問題なのではないでしょうか? 

これは私なりに徳保氏の意見を消化しつつ、かつ積極的に新しい創造をしようとしているクリエイターへの賛辞をも込めたつもりの表現です。
ある「行為」の形よりもそこに「未来志向の跳躍」が有りや否やを問う…という表現は、創造行為が社会自体を変化させていく価値を持つという意味で、必ずしも「神聖なる芸術の領域」を前提としなくても、創造的行為の価値を評価していくという意味であり、またその「心意気」を評価するといういみであります。津久井氏がこの件に反応した理由も、その「心意気」における部分での反感だったと理解していただいていると思います。
その上で、形として二者が「同じか否か」ということを論じる泥沼を離れるべきだというメッセージもそこにはこもっています。これは主に徳保さんとのやりとりの中で私が納得したことでもあります。それよりも「結果思考(結果として社会的財が増大することならば認めていく方向)」で考える見方を受け入れつつ、同時にその線で創造という行為の自由さを確保することが妥当であるという考え方。これを、私風に敷衍すれば「どんなに似ていても問題のないケースがあり、逆にどんなに似ていなくても問題のあるケースもある」ということであり、そのための判断の基礎が自分なりにできた、ということになります。
以上のまとめに問題がなければ、私の方としても、大体お互いの「合意できる点」と「そもそも一致し得ない点」の結論がついたように感じていますので、これにて一端論を閉じたいと思います。
(追記)10/13
上に上げたDryad氏の所で、更に以下のようにコメントを追記しました。

今回の件、徳保氏との議論を重ねながら「似てる似てない議論の不毛」にあらためて気付きました。思えばアンディ・ウォホールのキャンベル・スープが「有り」ならば(当然「有り」だと思うわけですが)「見た目の類似」は創作活動において論じるべき対象ではないことは自明のことであり、論じるべきはそこでないことは明かだからです。

今回の件で、反応した2ちゃんねらーの「ダブルスタンダードを批判する論/批判する資格があるのか論」などを多く見ましたが、私はどちらかというとそれよりも、avexの行為に(俺様2chさん風に言うと生理的に)鋭く反応した多くのクリエイターの方々*2の記事に多く示唆され触発されました。その中で再度自分の「オリジナリティ」概念を洗い直すことができたのが大きな収穫でした。ご協力いただいた皆さんに、深く感謝します。
また、Dryad氏のところでTakahashi氏の記事を紹介いただきました。氏の「失望」はつまり上に上がった「ダブスタ論」と同じことを2ch寄りの視点から書いたものだと思いますが、私は先に書いたように2chavexへの批判それ自体は倫理的には正当であると思っています。47氏の行為と比較して言うならば、「ねらーの多くがあのFlashモナーFlashだと認識していたうちは、これほどavexが叩かれてはいなかった(つまり、実は『パクって商売したこと』は批判のポイントでは無く、『独占(の怖れ)』が批判のポイントであったと考えられる)」という一事をあげれば十分ではないでしょうか?

*1:とりあえず、今度jo_30的な通り魔に襲われた際には「アッチのブログに全部書いておいたからヨメ!」と一言で追い返して頂ける…という程度の役には立つかと(’ー’;)タタナイカナ?…

*2:楽家著作家、研究者など