雨の中で思う

のまネコ問題(暫定)終結とともに、いよいよ仕事の多忙化が深刻な事態になり約一週間…仕事の合間にようやくすこし暇をつくりブックマークを覗くと、楽しみに読んでいた「ネコ裁判ブログ」が最終回を迎えていました……orz。
まあ、スッキリとしていいやめどころなんじゃないでしょうか。番外編があるとはいえ、とりあえず本編は打ち切っておかないとホントに「復讐ブログ」と化してしまうかもしれないし、だいたいフルタイムで仕事してる社会人にはそんな暇なんて無いですわな。今はゆっくりとこれまでの記事を振り返っておられるのでしょうか…。
私も「のまネコ問題終結宣言」してから、改めてこの問題を振り返っておりました。どこまでが許されるラインなのか、どこからが許すべきではないラインなのか。
たとえば日立の「かわいいコックさん」はありなのか無しなのか……。
知財をめぐるこれらの風景は、実は古い問題なのだと思います。何を守り何を許すのか、それによって社会的に何が生まれ何が死ぬのか。声なき人々の声を誰がどう伝えどう守るのか。今回の問題は、外からは「声がない」と思われていたけれど実は「日本一うるさい」連中を相手にしていたからこそ浮かび上がってきた問題だったと思います。しかし、これでもし相手が本当に「声なき」人々だった場合、こんな問題は問題として浮かび上がってさえこなかったことでしょう。全く同質、あるいはこれ以上に悪質なケースであっても。きっとそんなこと、たくさんあるのでしょうね。
「権利の上に眠る者は権利を奪われる」というのが法の倫理の根底にあると昔習いました。確かに権利とは不断の努力によって守られなくてはならないものなのだとは思います。しかしそれは「フェア」な競争環境が整っていてはじめて成り立つ話ではないでしょうか。どれほどの声をあげてもそれを圧倒する力が一方にある場合、「おまえは権利の上に眠っているようなものだ」という決めつけは単なる暴力にしかなり得ない。そして複雑化する法の隙間をつくような商売がそれにお金をかけられる人にのみ開かれているような場合、攻める側と守る側が「法の下に平等」だとは、私には到底思えないのです。法の大切さは当然の前提とした上で、法だけが我々の社会を維持し守るのだと私は思いませんし、またそういう社会が理想の社会だとも思わないのです。今回のように、たとえ法的責任を問えるかどうかは微妙な事例であっても、社会的にアンフェアだと思われれば多数の告発の声が上がる社会というのが、私には安全な社会だと思われます。『専門家の解釈が正しいんだ、素人は黙っとけ』という社会が良い社会だと私は思わない。それは単なる判断の停止であり盲従でしかない。それよりも、誰もが法の運用に対して「チョット待て!」を言える社会…それこそが、実は誰もが「権利の上に眠るべきでない」ことをよく理解している社会と言えるのではないでしょうか。