著作権をめぐる議論再び

東浩紀が村上隆への批判を展開
先日村上隆がこども衣服メーカーを訴えた件について、
東浩紀が彼の

私が生きている現代アートの世界はオリジナルであることが絶対的な生命線です。一つひとつコンセプトを考え抜き、心血を注いで造形した,私の子供の様に愛し育てて来た作品達。まして「DOB君」の世界観は誕生させて10数年, ゆっくりと育てて来たものです。

これらのキャラクターは、キャラクターであると共にアート作品です。日本ではアートの社会的評価や理解度は低いままです。功利主義で、文化発展への尊敬の念乏しき,文化の民意が著しく低い国。それが日本です。
しかし,こうした現状に甘んじるのではなく、オリジナルアートの価値を社会に認識してもらうことが重要です。私は、これからもそのために精力を注ぎ続けていきます。

…というあたりの発言に、激しくひっかかりを覚えたそうです。
http://www.hirokiazuma.com/archives/2006_04.html
そりゃまあそうでしょうねぇ。


先日地元のゲームセンターを流したときに、一山いくらのプライズ機(売れ残りの景品寄せ集め状態になってる所)の景品の一つにのまネコストラップを発見して感慨に耽りました。この問題と昨年ののまネコ問題はどう関連させて考えることができるでしょうか。


まず「公共財」のような存在である『カルチャーとしてのジャパニメーション』意匠をアートの世界に持ち込むという戦略を取ったのが村上氏。前者が商業主義の世界で後者が趣味の世界であったために、問題視する人もいましたが(主に力関係…アニメ<アート、という世界観の下で)東氏のように「それは許容されるべき」と考えられてきたのではないかと思います。そしてその村上氏が商業主義に「パクられ」たとき、村上氏は逆にその商業主義を訴えた、と。


これを「のまネコ」問題に置きかえてみると、「モナーのまネコ」というAvexによるパクリを2ch住人が批判した際に、
 『あやしぃ住人(ギコ発祥)が2chを批判した件』=お前も元々パクリだろ批判
 『2chFlash板が抗議行動を批判した件』=パクリが2chの文化だろ批判
 『現代社会のお約束による批判』=パクリは現代文化だろ批判
などが起こったわけですが、これらの批判はいずれも、『上の村上氏の立ち位置=2ch住人の立ち位置』とした批判ではなかったでしょうか。そう考える人に、両者の違いをどう説明すべきかがどれくらい話合われたでしょうか?


私は両者が全く異なると思っています。
では2ch住人の抗議には正当性を認め、村上氏の言い分に説得力を感じない理由とは何か?
それは東氏のブログではからずも言及されている、余りにも古い…それでいて重要な価値観である芸術の神秘性(アウラ=オーラ)に関係していると思います。
東氏の批判は、基本的に村上氏の今回の声明がこれまでの彼の戦略と矛盾するのでは?というものですが、しかし結論部分ではその矛盾を全面に出すのではなく次のように記しています。

いずれにせよ、ひとつ言えることは(そして残念なことは)、このニュースを見て僕のなかでDOB君のオーラが消えてしまったことです。実は、僕の自宅のリビングには、DOB君の版画がここ数年かかっていました。僕にとってDOB君のシリーズは、村上さんの価値転倒の戦略を代表する作品だったからです。しかし、そろそろレイアウトを再考すべきかもしれません……。

もちろんこれは比喩的表現に過ぎないわけですが、東さんが「オーラ」という表現で自らの否定的な見解を表明されたことを非常に面白く感じました。なぜなら、村上氏が実行し東さんが擁護し、そして今それを根拠に東氏が村上氏を批判したところの考え方こそが、芸術の神秘性(アウラ=オーラ)を否定したW.ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」の延長線上にある考え方であり、また一方で、超越した複製技術が逆に再び人知を越えた知覚的ショックという意味での『神秘性(=アウラ)』を我々にもたらすだろうという主張などで再生産されていくような「複製とアウラ」をめぐる言説に新たに付け加えられた一ページであるからです。東氏は、この「DOB君のアウラ」という表現で、逆説的に村上氏の戦略が失敗であった(アウラの消失を果たしていなかった)こと…言い換えれば『村上氏の本質が、戦略的美術家でなくただの小器用な文化偽造者に過ぎなかった』ことを指摘しているのだ…といえば深読みに過ぎるのでしょうね、多分。
村上氏の作品は、主芸術(メインカルチャー)と副芸術(サブカルチャー)、あるいは美術と商業主義の垣根を下げたのではなく、東氏の見解に基づけば実は「創造と批評」の垣根を下げただけだったのかもしれない。その意味で、1000年後に残るのは結局村上氏の作品ではなく、商業的に成功した「エヴァンゲリオン」であり、また批評性ということを高いレベルで実現した右上にあげたようなヌイグルミたちであろう*1と私は思います。そう考えれば、村上氏の行為は上で述べたような「小器用な文化偽造者」に終わらざるを得ず、その彼が自らの「作品」を偽造されたところで、同情する謂われはないように感じます。
では、2ch住人は「偽造者」ではないのか?と言われれば、それはもちろん違います。そもそも法律的に罪を問われる可能性があるのは明らかに2chにおける数々の著作権法違反の方であることは明白でしょう。しかし、2ch住人が「偽造」し「盗んだ」ものは、彼らが逆に「盗まれた」として怒ったものの本質ではありません。市販の楽曲を使って数々のFlashが作られましたが、それらの楽曲がなくても(たとえばAAのみでも)モナーというキャラクターは生き生きと動き掲示板におけるボケやツッコミを繰り返す中で洗練され、2chの精神(良くも悪くもある種の無責任さ、及びイノセンス。一言で言って『ひろゆき』的性質)の象徴として作り上げられてきました。そのこと自体はどこからのパクリでもない、集団的創造物であり古典的な意味でオリジナルなものです。2ch住人の多くが行っている「盗み」が賞められたモノでないことは事実としても、それが、2chから2chの財を「盗み」出していいという理由にならないのは明白です。
そしてまた、2ch住人の多くは「補償」や法律的決着を求めて憤っていたわけではありません。そもそも誰かにお金がわたるから許せるとかそういう問題ではなかったので、実際、同時期に起こった墨香オンラインにおけるモナー使用の件では、そのことに何らの対価を求めなかった「ひろゆき」さんの姿勢を批判する声はほとんど見られなかったと記憶します。そのあたりを含めても、公平に言って多くの2ch住人のモチベーションと村上氏のそれとには大きな隔たりがあると言わなくてはならないでしょう。問題は真似たかどうかではなく、そこにアウラの尊重があったか否か、ということだったのではないでしょうか。
その意味で、今回の件について考えることは、当時の問題を再検討する良い機会なのではないかと思いました。
(追記)
ちなみに、「画家としての村上隆の可能性から考えろ」という批判を展開している方がおられたので、引用&TBしておきます。この問題を、そのまま「村上隆批判」文脈につなげようと思うならその前にこの批判は参照しておく必要がありそうです(というか、はてなキーワードを見て、参考になりそうなダイアリがとりあえずここだったとも言う)。なんというか、熱い。熱いですよこのblog。
ちなみに、このblogエントリは、確かに「村上隆の絵画作品は凄く、彼の芸術家としてのポテンシャルは凄いのだ」という話をしつつも、あくまで造型作品に関して言えばその出来に疑問符をつけ、今回の件についても東氏の指摘に反論しているわけではない。今回の件を安易に「村上隆批判」の文脈に繋げることを批判しているのだと思います。その点に関しては、まことに仰る通りで、こうして上のようなエントリを書いている私は確かに村上氏の仕事やその可能性の総体のほとんどを知らない…商業的に(彼自身が)広めている像しか見えていないと思います。
しかしだからといって、「じゃあ批判するために村上の仕事を追ってやろう」と思うかというと、それはそれこそが村上氏の戦略にすっぽりはまっているという気がしなくもない。結局の所商業的な自己像それ自体も作家の作品であるとすれば、それへの批判もまた彼の予期する所だという話ですよね。作家の手のひらでああだこうだと言わされる程の愚は無いでしょう。その意味で、

村上氏自身が、自らの作品価格の下落を予感しているからこそ、手っ取り早く現金化できるものを引出した、と考えなければ今回の「和解」は理解できない。

この状況から抜ける道は1つしかなくて、それは戦略とかコンセプトを遥かに上回ってしまうような作品を作る、という事だけだ。

…つまり、村上氏に残された道は、お金をもってさっさとトンズラするか、衆目を集めたところで多くの人をうならせるような凄みを持った作品を提示するしか無いのではないか、という提言。首肯すべきものがあると思いました。果たして村上氏がこのエントリを読んだら何を考えるでしょうか。

*1:左上…PostPetのモモのヌイグルミは、『ヌイグルミが動いてメールを運んでくれるというコンセプトのソフトウェアのキャラクターのヌイグルミ』という転倒した存在です。左下…リラックマは、背中にファスナーがあるのを見れば分かるように『自らがヌイグルミであることを雄弁に主張し続けるクマ』であり、やはりそのヌイグルミがこうして存在することは三重・四重の転倒を象徴する存在です。ちなみにこの着ぐるみバージョンに至っては「自らがヌイグルミであることを雄弁に主張するクマのヌイグルミを模した着ぐるみ」というもはや収拾のつかない存在になるわけですが、その着ぐるみをクマに着せてみたらどうなるのだろうという転倒に至ってはさすがにまだ実施する人がいないようでほっと一息です(冗談)。右下のキャラ…名前忘れましたが、少し前に一世を風靡した「どう見ても色も形もヌイグルミなのに口から血を流し牙をむく残虐なクマ」のヌイグルミで、これまたヌイグルミのクマそれ自体を批評し、その批評が同時に作品であるとともに商業的成功を収めたという意味では、明らかに村上氏より上を行く存在だと私は思います。