そろそろ「『現代文』授業の『意義』」とか語るのはやめにしないか?

国語の授業とか読書って、この国で教養主義が堕落して以降、急速にそのオーラを失ってきました。
国語の大切さは誰でも共有しているじゃないか、と言われるかもしれませんが、国語の授業をイカサマじみた『方法論』で語る傾向はあとを立ちません*1。出版不況と言われながらも、新刊の数や本屋の数は多いじゃないか、という向きもあるかもしれませんが、5年経ったら価値がなくなる(ブックオフで一山いくらでしか売れない)ようなものは、そもそも紙媒体というメディアで残す意味のないものです。ネットにタダで置いてあっても誰も読みそうにもないその手の情報は、一応値段をつけるために印刷して出版してはいるものの、本来は『書籍』と呼ぶこと自体おこがましいです。要するに、一見栄えて見えていても、その内実は薄っぺらで、およそ底の浅い「隆盛」ぶりだということができるでしょう。
イデオロギーやポリシー、あるいは宗教といった言葉が嫌われる現代(日本)の風潮を生み出しているのが何なのかについては、別に詳細な分析が必要だと思いますが、とにかく長期的(少なくとも一人の人間の人生の長さを越える長さ)なスパンで物を見るということ及びその価値というものについて語ることが許されないですね。「今北産業」って言葉が以前ありましたが(今でも通じるのかどうか知りませんが)、ネットで少し物を書いていればたぶんその空気感は大抵の人が感じているんじゃなかろうかと思います。いわく、【誰にでも、分かりやすく短く、一目で分かる結果だけを相手にしていればよい】という風潮。重厚長大でもなく軽薄短小でもなく、重厚さと軽みを併せ持つ(かのような)もの、スタイリッシュでコンパクトで高性能・高機能なものが、この時代を生き抜いていくという信仰……あえて「信仰」と呼びますけれども、そういう考えに対して、何をカウンターとして発言するべきなのか、悩むことは多いです。



もう少し分かりやすく言うと、たとえばこういうセリフ

「○○って、意味あんの?」*2

に対して何を言うか、という問題。
こういう発言に対して

「意味?説明してもいいけど、お前に分かんの?」*3

と返すのは、正論ではあっても、余りにも不親切な気もします。「分からない人」は必ずしも全員が全員不誠実なのではなく、また能力がないのでもなく、本当にその答を求めているけれども、本当に目の前にある「道」に気づいていないだけなのかもしれない。



「分からない人」を「分かった人」にさせるために必要なのは、答を与えることでなく、答を得る力を養うこと、養い方を示すこと、あるいは養うキッカケを与えることでしょう。つまり、高い所にある色々なものを取らせるためには、取ってきて与えるのではなく、ジャンプ力を鍛えるトレーニングをさせるか、少なくともトレーニングの正しいやり方を教えるか、あるいは『そこにあるのはこんなに素晴らしい物だよ』と示してモチベーションを醸成するか、その3つのどれかをする必要があると思うのですね。
そして、それこそが「国語」という授業が行おうとしていることなのだ……と繋げると、少しは話が見えてくるのではないでしょうか。



という話を、以下のエントリを読んで考えました。

多くの人が国語の授業に違和感を抱いている。
実際のところ、国語の授業というものが「なにを目的にしているのか」がさっぱりわからない。古文や漢文はまだましなのだけれど、現代文というやつは皆目わからない。
[http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090813/1250130867:title=■[雑文]現代文の授業とかなんのためにあるのかわかんね]

まず「高い所にある何かを手に入れる」のが各科目の目的というヤツでしょう。
で、そこに「階段」や「梯子」があれば、その使い方教えるだけでいいわけです*4。化学で周期表を覚えたり生物でアミノ酸の名前を覚えたりするのは、「そこに必ずあって誰もがそこを通る道筋でそこをひとつひとつクリアすることで順々に高い所に登っていく」という意味で言えば作りつけの「階段」みたいなものだと言えますし、もう少し汎用性の高い数学の言語は、いわば、移動可能な脚立であったり「梯子」であったりする気がします。まあ単なるたとえなんですけれども。
それに対して国語の目指す地点というのは異様に個々人の人生に寄り添って遠くかつ余りにも広汎で多種多様なものであるため、そこで行われているのは、迂遠なように見えて一番実直な『ひたすらジャンプ力を養う基礎トレーニング/基礎トレーニングの方法論』なのですね。
漢字の勉強をする、指示語の使い方、接続詞の使い方、文法を学ぶ、といった基礎体力からスタートして、文脈、段落構成、比喩や言い回しから意味を読み取る力を養い、様々な種類の文に慣れ*5、要約の練習をし、また最近ではそういったリーディングばかりでなく、スピーチ・ヒアリング、ライティング、ディスカッションやプレゼンテーション、そしてメディアリテラシーなんかも国語で教えるべきこととなってきています。*6
つまり、国語はトレーニン
「国語の意義」を問う人は、まずそこをしっかりと共有して欲しいと思うわけです。
たとえばあなたが運動部の出身で、かつて部活で後輩に腕立て伏せをやらせてるときに「腕立てとか何か意味あるんすか?」と聞かれた時、どう思ってどうしたかを思い出して欲しいな、と。まあ後輩ならまだいいんですけど、保護者とかから「腕立てとかやらせすぎザマス。もっと試合練習をさせるべきザマス」と言われたらどう思っただろうか、とか。もちろん、ゲーム的に楽しく腕立てやらせるとか、超煽りまくってモチベーションあげて(欺して)腕立てに燃えさせるとか、まあやり方はいろいろあるんですけど、基本はやっぱり「楽な方法」なんて無いわけで、いかにたくさんの人に大量に辛いトレーニングをさせるか、というのが共通の課題なわけですね。国語の授業というのは、本質的に辛いものなんです。トレーニングで力がついた実感というのは、試合の中で確かめるしかない。実践…すなわち世の中に出て、国語力を発揮し始めた時に、ようやく授業でどれだけのことを学んできたかが問われるのが国語という科目の宿命なのであって、そして大抵の人はそのときには「トレーニング」のことなんて忘れている。漢字を読み、書いているときに、いちいち漢字ドリルのことなんて思い出さないでしょう?
そういうものなんですよ。



最後にひとつ。
偏った自己流のトレーニングというのは、「楽しむ」レベルでならそれほど深刻な問題は引き起こさないのですが、「セミプロ」以上のレベルで使おうとするときにはそれなりに深刻な問題になったりします。とりあえずG.A.Wさんは

え、国語の成績? よかったですよ。なにも勉強しなくても。設問のほうから「求められている解答」のほうを答えればいいわけでしょ。そんなん濫読で鍛えた程度の読解力があればできる。
そして、そのことにいったいなんの意味がある?

少なくともその「濫読」によるトレーニング量を否定するわけではないのですが、堀辰雄川端康成というのはそれなりに「偏った」トレーニングであることも自覚しておかれると良いと思います。昭和初期の軽めの装飾的な文体だけでなく、その流れなら、逆に重厚な戦後派の作品の流れとか同時代でもプロレタリアリアリズムとか、逆に遡って鴎外の作品とかお奨め。
そもそも「国語」という単なるレーニングが上手であったことを言い立てても、それこそ『そのことにいったいなんの意味がある?』のか、ということです。問題は、今何を書き、残しつつあるか、ということでしょう。トレーニング量がそれなりであったG.A.Wさんにとって大事だったのは、国語の授業という退屈な時間の中で、どれだけ「自分一人ならおよそ読まない文章を読むトレーニング」をしたか、そのことによって自分の国語力の幅をどれだけ広げてきたか、という点にあったのではありませんか。

*1:大学受験関係では、相変わらずそういうのが人気です。

*2:こういうセリフに対して私がいくらかイラッと来てしまうのは、どうしてもこれがゼンキョートー世代のおっちゃんたちが若い頃叫んでいた「ナーンセンス!」という、あの『伝統挑戦的根本的懐疑のつもり=後から振り返れば厨二病』的なかけ声を連想させられるからなのかもしれません、と自己分析してみる。

*3:「説明が必要だという時点で、もう説明してもダメだという気がして仕方ない」というのが本音にはある、というニュアンスを込めていると想像してください。

*4:と言っちゃあいくらか語弊があるかもしれません。少なくとも階段を使うから「楽」だということではないです。

*5:このあたりが「登場人物の心情」うんぬん……という問題が問うているところで、トラバで花見川さんが指摘しているように、あれは「本当の心情」などという得体のしれないものに対する質問なのではなく、単に指示語や文脈、比喩の意味を読み取るトレーニング素材に過ぎません。かといって、それを真顔で高校生に言うと「なーんだ」となっちゃうわけで、「さあ、彼は何を考えているかな」という問い方をするのは、一応つまらないトレーニングにソフト風味のコーティングをしようという、せめてもの国語教師の親心なんですよ。

*6:ちょっと盛りすぎな気がするんですが。