マスメディアの凋落と自壊を防ぐには?

内田樹さんが、現在の新聞はじめ多くのマスメディアの凋落について、彼らの「思考の行き詰まり(限界)」について触れた興味深いエントリをアップしています。

新聞記事の書き手たちは構造的にある「思考定型」をなぞることを強いられている。
それは世の中の出来事は「属人的な要素」で決まるという思考定型である。
要するにこの世には「グッドガイ」と「バッドガイ」がいて、その相克の中ですべての出来事は展開しているので、誰がグッドガイで誰がバッドガイであるかを見きわめ、グッドガイを支援しバッドガイを叩く、ということを報道の使命だと考えているということである。

自分が新聞を取らなかったり、TVを見なかったりする理由(興味が抱けない理由)の一つに気づかされた気分です。言葉というものを「ナメた」メディアは、一見隆盛しているように見えても、決して長持ちしないと思います。*1



さらに、元のエントリは、そこから更に展開して、「個人」でなく「文体」が語るということの問題に切り込んでいます。たとえば定型的な週刊誌の煽り記事を読んでうんざりした気分にさせられる理由は、「文体」が語っていてそこに「個人」がいないからだ、と。そして内田さんはさらに、「個人」が「個人」として語ることができることがインターネットのアドバンテージだ、という話につなげていくのですが、私としては、そこに少しだけひっかかりがあります。
そして、そのひっかかりについて考えてみると、そこから、マスメディアの凋落に少しだけ歯止めをかける方向性が見えてくるかもしれない、あるいは見えないまでも、同じ問題に切り込む少しだけ角度を変えた切り口にはなるのではないだろうか、と考えたので、少しだけ休みを利用して書いてみます。




そもそも「組織」と「個人」の問題、あるいはもっと大づかみに「公・個・私」についての整理を、私は次の優れた記事から得ました。

日本では、「公」と「私」との区別の使い分けが長い伝統として存在してきました。しかし、「個人」としての発言の歴史はまだ浅いのです。「公」と「私」との間に「個」が存在する。というよりは、個人こそ、私的な人格(private person)と公的な人格(public person)とを結ぶことができる人格(personality)そのものであり、それが自己を表現する働きをしている。こう言っていいかと思います。このように見ますと、私語と公語との分裂が、現在の若い人たちの間に見られるのは、この二つの狭間にあって、二つをうまく結びつけることができない。すなわち、公的と私的との間に存在する個人としての自分を見いだすことができない。こういう悩みを持つ若い人たちが多いことを意味しています。現在この国の若い人たちが直面している問題の一つが、この「公」と「私」との分裂です。しかもこの分裂は、その解決が見いだされないままに、若い人たちだけではなく、現在の日本社会全体における深刻な問題になっているのです。
(「コイノニア」http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/koen/chap3.htmより)

ではいったい「私人」と「個人」とはどう違うのでしょうか? これを私は学生にこう説明しています。クラブに入った時に、あなたは、「さあ、これからはクラブの1員なのだから、自分勝手はできない。自分を殺さなければ」、こう考える人がいるなら、その「自分」とは私人のことです。これに対して、「さあ、クラブに入ったのだから。これから大いに自分を発揮して活躍しよう」、こう張り切っているのなら、その「自分」は個人です。クラブを強くするには私人は殺さなければならない。この場合、「公」と「私」は対立します。しかし、クラブを強くするためには、自分の個性を発揮しなければならない。なぜなら、クラブという共同体は個人で成り立っているからです。個人が力を合わせて個性を発揮しなければそのクラブは強くなれません。これはスポーツでも演劇でも音楽でも同じです。個人と私人、このふたつは、集団との関係ではちょうど逆に働くのです。(同上)

こういうことは、物事の整理がきちんとついている方には当然かもしれませんが、自分としてはとても明確で分かりやすいまとめでした。「公」と対立するのは「私」、そして「個」はその両者をつなぐように働く。



これを先のマスメディアの話につなげると、つまりこういうことになります。マスメディアは「公」の文体でしか語らない、誰も「一人の人間」としてその内容に責任を持たない。一方インターネットは「私」の文体で語ることができるメディアであり、人はそこで自分の言葉に「一人の人間」として責任をもつことができる、と。内田さんの話はそのようにまとめることができるでしょう。これはそれなりに理解できる話です。



しかし、本当に責任のある言葉とは、上の分類でいうところの「個」の文体で語られるべきなのではないかと私は思うのです。インターネット上であっても「公人」としての氏名をあきらかにし、「公」の視点を忘れずに、かつ一人の書き手として自由に*2ものを書いておられる内田さんの言葉は、十分以上に「個」としての言葉であると思うのですが、果たしてネット上の文章がことごとくその要件を満たすのかといわれるとはなはだ疑問です。ネット上で人はもっと「個」として振る舞う必要がある、以前そのような記事を書いたように記憶しますが、このことは再度述べておきたいと思います。



一方で、現在のマスメディアが「公」としての文体にはまりこんで創造性を失っていることは全く事実だと思います。
一例

今日、記者志望の若い方と話していました。かつて大手新聞の記者として仕事をしていた方ですが、やめたきっかけは同僚の20代前半の女性記者の過労死だったそうです。20代も、30代、40代、50代も、年代に関係なく無意味なまでの激務に倒れてゆく…。
「新入社員の4月1日が、一番頭のいい時。以後、自分の頭で考えて物事を判断するのではなく、上から命じられた業務を、朝から晩までひたすらこなす、ただの組織の歯車になってしまう。全体主義もいいところ」と。「記者クラブの中で働かされている記者も『被害者』なんです。」
同僚の若い女性記者の過労死に際しても、皆、感情をあらわさず、お通夜に出た後は、また、サツ周りに散ってゆく。乾ききったふるまいにショックを覚えたが、そこに追い打ちをかけたのが上司の言葉。「仕事の途上で死ねた、本望だっただろう」。何を言うか、と激しく心の中で反発した、という。
こんな過酷な労務環境でも、仕事の内容に意味や価値を見いだせたら、やめなかったかもしれない、という。「でも、実際は、官僚の発表する情報を垂れ流すだけ。警察や検察の情報に関してはひどかった。嘘の情報でもなんでも垂れ流す。現場で見てきたから、岩上さんの言うことが事実と知ってます」
http://togetter.com/li/12022(本日のホッテントリより)

確かに、マスメディアという「公」の場で「私」の言葉・文体が許されない、それは真っ当なことだと思います。しかし「個」としての発言は「公」という場だからこそできるのではないか、そしてそのことを多くの人が忘れていたり気づかずにいることの方が、ひょっとしたら労働環境の過酷さ以上に問題なのではないかと思います。公正中立・客観性、という言葉にとらわれて、「個」という立ち位置を見失っていること。そこにこそマスメディアの凋落の大きな原因があるのではないでしょうか。



そしてそれは、さらに振り返って言えば、今日、誰もがそれぞれの仕事場においてつきつけられている問題であるという気もします。「個」としての自分の立ち位置・振る舞いについて、考えなおすこと。そこに、今日マスメディアに求められ、さらにいえば我々自身についても求められる視点があるように感じています。

*1:言葉の力を「ナメ」て、定型にはまりこんでしまったメディア・ジャンルは、創造性を欠いた結果として、力や才能のある書き手からそっぽを向かれ、滅びていく。文学の歴史の中で何度も繰り返されている出来事だと思います。近代だけをとっても、俳諧→俳句→近代俳句、といった展開が、たとえばその一例です。

*2:すなわち責任を自覚して