君子は言に訥にして行いに敏ならんと欲す。(「君子欲訥於言、而敏於行。」論語里仁第四-24)

最近、自分によく似た雰囲気の人の講演を、聞く側として体験して思ったこと。きちんと声を出したり、話の内容を整理し計画しストーリー化すれば相手に届く、というものでも必ずしも無いということ。一所懸命計画し、声にも抑揚をつけてはおられるのだが、逆にそれが邪魔っ気で話に集中できない、正直上滑りにしか聞こえねえなあ、と感じた。逆に、同じ日の講演で、訥々と喋る老人の話に、なぜか強く引きつけられたり。



前者の話が聞きづらかったのは、一人で全ての話を組み立てようとしすぎている(自分も話すとき、準備しすぎたりして逆にそうなることがある)ため、流れの先をいちいち「準備した」感が強くなり、結果として、聞き手を刺激・反応させているようでいて、実は考えることをさせていないためではないかと思った。聴衆に問いかけたりもしているのに、聞いている側としてはひどく「置き去り」感が強いのだ。話し手が「こちら」を見ず、「話」ばかり見ているみたいだった。



後者の話は、ゆっくり、丹念に、いろいろなことを積み重ねながら話していた。しゃべり方も決してうまくはないけれど、積み重ねてきた「何か」を感じ、そこからいろいろなことを考えさせられていく。自分の体験でも、決してうまくはなくても、「何かを教えてやろう、伝えよう」としすぎたときより、自分の興味のままに、自然に一つ一つ話を積み重ねていたときの方が、相手に伝わったことが多いような気がする。(相手にもよるだろう。これは、基本的に大人相手に話をする場合のこととして、だ。)



今月はまた、話をする機会が多く、既に4回。うち二回は一応うまくいったが、二回は失敗だったような気がする。振り返って思うに、聞き手をよく見ず、「過去にうまくいったやり方をなぞるよう」にしたときは、やはりダメだ。いろいろな人に会えるのは面白いが、自分だけが面白がってもダメだ。



タイトルの孔子の言葉をふと思い出した。以前はこれを、『ぺらぺらうわっすべりな喋りより、やることやれ(行>言)』という意味に理解していたように思う。けれども、本当は『「行い」がモノを言うようにならねばならん(雄弁はむしろ「行い」がモノを言う際に邪魔になる)』という意味合いがこもるのかも、と思った。敏なる行いで全てが語られるなら、そのとき、確かに訥弁・沈黙が金の輝きを放つに違いない。なるほどそれは理想だ。



話すことは難しい。まだまだ学ぶことは多い。
今週の話に生かせればと思い、覚え書き。