僧桃水

記念すべき紹介第一号は、流浪の僧、桃水さんです。この人のエピソードに関しては、もともと面山和尚という方の書いた「桃水和尚伝賛」という、別の本にまとめられていているものから要点をひろって書いたものだ、と、伴さんが書いておられます。なんだか似たようなことやってますなあ…。そういうわけで、つまり私の書くのは引用の引用、抄出の抄出、いや、ダイジェストを更にダイジェストして肉付けして…と、もはや本来の姿を残さないシロモノになる可能性があるわけです。
しかし、ダイジェストとは、もとのものの本質を突く一点、そのエッセンスを抽出するところに本来のねらいがあるわけですから、私の作業も、よく言えばまあエッセンス・オブ・エッセンス、と、まあそんなようなものになるのではないか。ならないかな。なるといいな、と。でもちょっと心配なので、そう言いつつも、少し他の本の内容とかも交え加えて、分かる範囲で書いてみようと思います。小心なので。


さてこの桃水和尚、先の面山和尚の「桃水和尚伝賛」によれば、少年時代は「頭は良かったが見た目ボーっとした感じ(資性聡利と雖も容貌魯鈍に似たり)」と言われておったようです。子どもの頃から仏像で遊ぶ、など常と変わったところがあったこの子を、親は寺に預けることにし、7歳で肥前武雄の禅林寺に入りました。そこで宋鉄禅師という名僧に師事し、20歳で各地をめぐる修行に出、35歳の頃再び宋鉄の下に戻り10年修行を重ねた。ところが、その後ふっつりと行方を断ってしまったのだそうです。さて、彼の胸に、一体何がうずまいていたのか。



若き日の修行時代について桃水は「修業時代、見かけた僧侶は、みな名誉と利に忙しそうであった(行脚の当時、名利閙(さわが)し)」と述べたと伝えられています。また、宋鉄の下に戻ったころ、宋鉄が弟子たちに「五戒のうち食欲色欲睡欲を戒めるのは、修行をしておればそう難しくはないが、僧でもともすれば名欲と利欲にはおぼれることがあるから気を付けるのだよ」と教えるのを聞いて、「当たり前なことをおおげさに…」と呟いたこともあったとか。*1



思うに、桃水にとって仏道修行とは極めて自然に求めるもの、純粋なものであって、だからこそ、修行を重ねれば重ねるほど、世間とのずれは言うまでもなく、他の修行僧とすら相容れない自分を発見し続ける失意の連続であったのではないでしょうか。彼の失踪の原因をその辺りに考えるのは、それほど的外れではないでしょう。というのは、畸人伝が紹介する桃水のエピソードは、その後、流浪生活の中で乞食僧の生活を送る桃水の姿が偶然発見された数回の出来事だからです。


桃水が筑後におった頃の弟子の尼がいた。師の教えを守り、ぜいたくをせず、修行に邁進する彼女は身の回りのものも、檀家からの寄進で購入するのでなく自ら作り、働く立派な修行者であった。彼女は桃水失踪の後、桃水の跡を求めて訪ね歩き、ついに京都四条河原で乞食に混じり病人を看護する師の姿を発見する。涙を流しながら、師を拝み、背の荷物から師匠に渡したのは、自ら糸を紡ぎ、織り上げた布であった。
「先生、戻ってくださいとは言いません……でも、その身にかける布を、せめてお取りください」
「今の私には不要なものだ」
「先生に必要なければ、どうしていただいてもよいのです。先生に差し上げるために織ったものですから、差し上げたものを捨てなさっても私は恨みません」
「そうか…」
布を受け取った桃水は、その布を看護していた乞食に着せた。それを見た周囲の乞食は驚いて「あんたえらいお人やってんやなあ!」と拝み始めた。すると、桃水はいつのまにか姿を消し、二度と戻らなかった…。

また別の弟子が三年間師匠を探し、再び乞食にまじる師匠を見付けた。
「先生、どうしても戻られないなら、私も同じ姿となって一緒に参ります」
「帰れ」
「帰りません」
どうしても言うことを聞かず、無理についてこようとする弟子に、桃水は仕方なく、それでは俺がどのようにしているか見せてやろう、ついてこい、と言った。弟子がついていくと、行った先では一人の乞食が死んでいた。
「おい、埋めるぞ。手伝え」
死体は既に臭いを発していた。弟子はもちろん黙って従った。行き倒れの死体は見たこともある、弔いをしたこともある。自ら手をとって埋めたことはないが、桃水の下では畑仕事もやらされた。体を使うことを厭うことは、無論ない。だが、飢え病んだ男の死体に手を触れたときは、さすがに少しひるまずにはおれなかった。弟子の様子を見るような見ないような様子で、桃水は手早く指示し、埋め終わると水をかけ、経をあげた。弟子は、久しぶりに師匠とともに経をあげ、充実感に浸りながら、(これで、少しは認められたろう…)と得意であった。
経を上げ終わると、弟子に向き直った桃水は「それではお布施をいただくとしよう」と無造作に言った。
「布施?布施を取るのですか」弟子は意外の念に打たれた。この死者は意外と名のある死者か何かであったのだろうか。あるいは、隠した財産でもあったのだろうか。乞食の外見をしていても、万一のために意外な所に銭を隠しているものもいる。師匠はそのことを言っているのだろうか。
「これよ」
と、先程の乞食が倒れていた所に座り込む師匠を見ると、欠けた椀と草の葉の上に、残飯、あるいは吐瀉物とさえ見えるような茶色くなりどろどろとした臭い飯の塊のようなものが見えた。桃水は無造作にそれを口にすると、
「どうした。お前もいただけ」
と勧めた。弟子は、桃水の横に座り、黙ってそれを口にした。しかし次の瞬間口中から湧き上がる嘔吐感を止めることができなかった。ひたすら吐いた。吐きながら、泣くしかなかった。
「分かったか。お前には無理だ。やはりここで分かれよう」
そう桃水が立ち去ったあと、ひとしきり弟子のうめく声だけが響いた。

なんというか不器用な人だなあと。良い意味で、ではあるんですが。
人が嫌い、というのはでないけれど、本気で純粋に一つのことに打ち込むときに、人と連れ立つことのできない人というのは確かにいて、この人もそういう人だったのだろうなあ、と。弟子からの慕われ具合を見るに、決して意地悪とか嫌な人だったとかではなく、本当に良い人だったのだろうとは思うのですよね。



その後、大津で草鞋売りをしていたとか。行脚を続けた彼ですから、きっとその辺のわらで草鞋を作るのも上手だったのでしょう。街道をゆく駕籠かきや馬子に評判がよかったとか。その頃であったおとうと弟子には、「おめえ、殿様連中にもてはやされていい気になっちゃいかんぞ」と言ったとか。あるいは、また、ある人が年老いた彼を哀れんで(えらい僧とは知らずに)阿弥陀仏の絵をやると、彼はそれを自分の住む小さな小屋の壁にかけ、次のような歌を詠んだそうです。


せまけれど宿を貸すぞやあみだ殿
 後生たのむとおぼしめすなよ

(狭い小屋やけど、宿を貸したるで、アミダさんや。せやけど恩を売って来世で救ってもらおうという了見とは違うで。そこんとこ、分かっといてや。)

阿弥陀仏にも、意地を張らずにはおかない。



さて、その後、京に戻り行乞をしていた桃水に、ある人が「ぜひ、うちに来てお経をあげてください」と言ったのですが、「わしゃ葬式坊主と違う」とすげなく断られたので、その人は一計を案じて次のように言ったとか。
「うちは使用人が多いので、残飯がたくさんでて腐らせてもったいない。これに酢をあてて売っていただければ、行乞なさるよりよいのではないでしょうか」
そうすると桃水は
「なるほどそれは良いことじゃ。捨てるものは、拾おう。わしは鮓売りのじじいになろう」
…と言って、酢屋道全と自称してその後過ごしたとか。



意地張り、一代。それは、同時にあまのじゃく一代、の人生であったようにも思います。なかでも



捨てるものは、拾おう。



その言葉に、何か、彼の「根」のようなものが見えてくるのではないでしょうか。
人が捨てるものを、おれが、拾おう。今の世の人は、あまりにいろいろなものを捨てすぎる。大切なもの、なくしてはならんものが、次々に捨てられていく。
人を救うとか、導くとか、そういう大層なことは、自分の道ではない。ただ、目の前で粗末にされるもの、捨てられるものを見過ごしてはおけないだけなのだ。わしは一生乞食坊主だ。



……そんな彼のつぶやきが、伝記の向こうから聞こえてくるような気がします。反骨の僧、桃水。確かに一人の畸人(かわりもの)でした。

*1:ここまでの話は、こちらのサイト「新千暖荘」の記事を参考にさせていただきました。ありがとうございました。