教育についての問い

<試験に絶対出る教育問題>
以下の問題に答えよ。制限時間なし
1 欧米に日本のような予備校や塾はない。
  なぜ日本ではダブルスクール化が進んでいるのか。
2 社会に出て必要な「法律」も「経済」も教科にないのはなぜか。
3 「受験」と「教育」と「学問」の違いについて述べよ。
4 「受験秀才」とは揶揄か褒め言葉か。その理由も述べよ。

http://watto.hatenablog.com/entry/2015/11/07/233134
元ネタは(http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20151106)とのこと。



まず、当然のことながら、同じような仕組みと働きをもち、場合によっては成り立ちが同じである組織でも、異なる文脈に置かれれば、ことなった有り様や働き方を見せることは不思議ではない。分かりやすい例としては、「BaseBall」と「野球」がそうだろう。両者は、よく似たルールにより、よく似たような方法で人間をある形に育成するスポーツであり、実際統一ルールにより試合をすることが可能な程度には「似ている」。だが、社会的な位置付けや、それをめぐる育成の在り方、生み出す文化などは全く違う。長い歴史の中で、それは次第に違うものに変化してきたのだ。むしろ、そのような変化を遂げることこそが、それらが社会に根付き、文化そのものとなる過程だったとも言える。
「School」と「学校」も、また、それと同じ位に違う。そして、「学校」を生み出したのも、まぎれもない日本の社会そのものだ。このことを、まず第一に抑えておきたい。



1〜4の質問が意図するところ、そしてid:wattoさんの言うところは、『社会で役に立つ力を身に付けさせる』という意味での教育が、日本の学校で尊重されていないのはなぜか、ということなのだろう。気持ちは大変よく分かる。
そして、現在、学歴社会+センター試験という、まさしく科挙そのものだったと言える大学入試を変えようとして、教育改革の動き(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo12/sonota/1354545.htm:高大接続改革実行プランについて(文部科学省))がある。硬直化した知識偏重の「教育」を、これからの国際社会で役立つ力の育成へと変えようという動きだ。だが、三者のいずれもが考える「社会で役に立つ力」とはどういう意味か。それは、本当は「社会『の』役に立つ力」ではないのか? ……それは本当に教育の目的なのか?



「教育」の理念を、上の言葉を用いていうと、それは「私『の』役に立つ力」を育てることにある、というのが一番適切ではないだろうか。そして、日本社会の中で教育行政は、まさにその理想そのものを実現しようとしてきたのではないかと思う。日本の学校で「(社会の)役に立つ力」を育成しようとするとき、必ずある抵抗は、「学校はそのようなことを教える場ではない」といったものだ。そのとき、背後にあるのは、余りにも純粋な教育への理想論だ。
私は、その理想が間違っているとは必ずしも思わない。理想はとても大切だし、それを見失うことで壮大な無駄を生じる恐れもある。だが、理想を唱えていれば理想が実現するというものではない。日本の教育行政には、理想を実現するための具体的な方法論があまりにも欠けている。
日本の教育行政は、つまりとても純粋なのだ。純粋ゆえに無力であり、純粋ゆえにズレている。さらに、社会はそのズレをつきつつ、果てしない「実学」の幻を追おうとする。そういう二重の悲劇がそこにはある。
「私」の在り方にそれほど多様性がなかった時代には、そのズレはまださして大きな問題ではなかった。だが、「私」の多様化した近代後期に当たり、「学校」の在り方はとても難しいものになってしまった。このような時代の中で、「学校」を理想的な「教育」の場とする教育行政の夢は、ますます実現から遠ざかるばかりだ。
現在の教育改革の動きも、実は大きな意味で言えば実学の幻を追っているに過ぎない。従ってそれは、「社会の要請」には応えるものになるかもしれないが、「教育の理想」を実現するものではない。*1
以上を踏まえて、1〜4への回答は、以下のようになる。


1 日本と欧米は違うから。ただ、欧米が正しいとは特に思わない。
2 質問者の望む形ではないと思うが、中学校社会の公民分野では法律も経済も教えるし、高等学校公民の必履修科目である「現代社会」(または「政治・経済」)でも同様である。「役に立つ法律学」や「役に立つ経済学」を教えていない、という現状は、現在進行中の教育改革で変わる可能性がある。*2
3 「受験」=レース。
  「教育」=俗に躾。本来は人間性を完成するための支援。
  「学問」=趣味。
4 黙々と自分のレースを走る者にどう声をかけるのか。マラソンランナーに「一銭の得もないのに懸命になってご苦労さん」と言うか? 『あなたは優秀なランナーだ』という言葉は、揶揄でも過剰な賞賛の意を込めたものでもあってはならず、ただマラソンにおいて走ることが速いという以上の意味ではない。マラソン以外でも、ひょっとしてその人は短距離走でも速いかもしれないが、絵を描くのは不得手かもしれない(忍耐強く描き続けなければ完成しない絵があれば、いくらか違うかもしれないが)。だが、それはそれだけのことだ。

*1:ちなみに、欧米の学校をはじめ、世界のどこにも未だかつてそんな理想的な「学校」が実現したことはないだろう。神話の中以外には。

*2:そして、それが適切な変革であるかどうかは疑問である…のは言うまでもない。