ささやかな疑問を解消するのに必要な時間はささやかではない

テーマとタイトルは余り関係無い。いや、無くはないけど。
落語2.0宣言(岡田斗司夫のプチクリ日記)
落語についてアレコレ考える(岡田斗司夫のプチクリ日記)
で、「落語2.0」って話をしてる。まあ2.0と言う言い方自体も含めて一種のjokeだと逃げられそうなんだけど、真面目に考えてみる。

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いじめについて

DVにおける加害者完全悪論への反論を読んだ(「加害者は決して完全悪ではない」こそ反DV運動の教訓)。個人的にこれを、昨今のいじめを厳罰化によって止められるか、という議論と関連させて読んで面白かった。

「DVは犯罪」「加害者は完全悪」という考え方は、加害者を「わたしたち」とは違った種類の人間だとして処罰・監視することで対処しようとするネオリベラリズムの論理に奉仕するものでしかない。加害者は決して完全悪のモンスターではなく、「わたしたち」の誰もとそれほど違わない普通の人間であり、「わたしたち」の誰もが偶発的な条件によっては「加害者」となりかねないという想像力がはたらかないような人は、結局「支援者」としての自分と「支援される」側の被害者とのあいだに不健全な権力関係を築く危険が大きいので、被害者支援に一切関わるべきではないと思う

誤解をして欲しくはないのだけれど、「加害者完全悪論は解体すべきだ」というのは加害者の責任をうやむやにして良いということではないし、ましてや被害者の側にも落ち度があるということでも決してない。加害行為に対する責任は厳しく問いつつ、「完全悪」という言葉によって加害者となった人たちが「わたしたち」とは全く別の種族であるかのように想像力の圏外に放逐してはいけないと言っているのだ。また、「DVの犯罪化」路線に反対するということは、DVを犯罪として取り締まることの一切に反対という意味ではない。いつどういう形で加害者の責任を問うのか、そして加害者と別れるのかどうかといった決定を、できる限り医者や「支援者」や警察ではなく被害者当人が決められるような取り組みが望ましいと言っているのだ。

引用先でmacskaさんが述べる『被害者が加害者と親密な関係にあり、被害を受けたからといって必ずしもそうした関係を全て捨て去りたいと思うわけではない』というDV事件の特徴は、実はいくつかのいじめ事件にもあてはまっていたりする。そういうある種の微妙な共犯性*1私がmacskaさんの立ち位置を面白いと思ったのは、
 ・それでも厳罰に処せ派
 ・本人がいいならホットケ派
のどちらでも無い立ち位置を示している点だ。
あと、マツウラ氏の話を合わせて読むと更に面白い。「いじめられたことのある教師はいじめられた子の気持ちが分かる」という主張の無意味さを照らし出している点で興味深い。

*1:っこでいう共犯性は、事件に対する共犯性であって、≠被害に対する共犯性、であるとしておく