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火の球や…

この二、三日、朝はずいぶん寒いので、さすがに手元に何かを読みながら歩くのもつらく、手持ち無沙汰に顔を上げると日が射し始めていた。家並みの向こうにちらと山が見えて、それが輝いている。ふと俳句でもひねりながら歩こうかと思った。そのとき、自然と「離れ初めたる」という句が浮かんだ。
「離れ初む」などという言葉にはあまり聞き覚えがないが、いずれ「乱れ初めにし我ならなくに」の心であろう。句の意味は理解できなくもない。そしてその言葉が出てくる理由も検討はつく。
まもなく、これまで四半世紀務めた組織を去るのである。新しい仕事に入る。しごとが大きく変わるわけではなく、むしろ「変わらない」ようにするために移るようなものなのだが、それでも気持ちの上では変化であることに間違いはない。そんな気分が「離れ初めたる」という語となって現れたものだろう。しかしさて、これを俳句にせねばならない。ここから頭の体操である。
まず、日の出を見て浮かんだ句であるから、やはりそれに敬意を表して作句するのがよいだろう。句の景は作句の工夫のうちに移り変わることもあるが、そこはおおらかに構えるとする。すると、果たして眼前の風景において「離れ初め」たのは大地と太陽といずれであろうかと、自然と考えられた。
もちろん、普通に考えれば大地を太陽が離れるとするだろう。「離れ初めたる日の出かな/初日かな」と呟き、しかしこれではいかにも面白くない。何より眼前の風景を見て、眩しくおおどかな太陽を見て「太陽が大地を離れていく」という風には、どうしても実感できない。もし太陽に主を置くのなら、飛び立つとか捨て去るとか、そういう気分である。ただそれでは自分の今の気分にはそぐわない。では、「離れ初む」のは大地か。己は大地というほど大きいであろうか。いろいろと考えて「離れ初めたる山一つ」と並べてみた。大地ほど大きくはないが、太陽と比べるならなかなか小さくもないと、少しだけ肩を張る気持ちである。
ならば初句は太陽を歌うことになる。折しも昨日は節分で旧正月であり新年であるから、いっそこれを初日の出の景としてよいであろうか。だが、「初日かな」とすると「初」が被る。これをよしとする人もいるであろうが、自分はよしとしない。では「日の出」として、たとえば「日の出いま離れ初めたる山一つ」であろうか。だが、「出」という動詞がやはりウルサい。「離れ」と被るからだろう。いろいろ考えるうちに破れかぶれでいっそ無茶に見立てて、題でごまかしてしまえという気分になり、初日と題して次のようにしてみた。

初日

火の球を 離れ初めたる 山ひとつ

いかにも乱暴な句であるが、自身の暴挙をよむ心であるから、一端これでいいとする。火の球とは、旧所属の今後益々の発展を祈念する心だ。決して火の車とか揶揄する気分ではない。また、離別にあたり、名残りを惜しんだり逆にすっきりせいせいとそういう気持ちもなく、ただ新しい風を受けて目をしばたたかせるようなそんな気持ちである。口にすれば、語呂もそれなりに悪くないようである。「h」音のリズムが心地よい感じで、助けられた観がある。こういう偶然は、本当におもしろい。
ところで、このような、題を句で解くようなある種の川柳じみた作句法は近代俳句の最も嫌うところであるが、自分は気にしないのである。このことについて少しだけ弁明を試みたい。
以前、年配の同僚に、名を言えば誰もが知る俳人の方が各地で開催しておられる句会のひとつに誘っていただいたとき、大変光栄に感じながらお断りしたのは、思えば、そういう所に出入りするとこういう句を自由に作りにくくなるだろうなという気分であったように思う。もちろん、その俳人先生のおそばで作句させていただければものすごく勉強にもなるだろうし、広がる世界はあるだろうと思う。何より「同じ心ならむ人」と句を共有し語りたいという気持ちは自分にもまたある。だが、句会に「所属」し作句を勉強するということは、イコールある先生の「型」を学ぶということである。
これまで俳句を作っていて思うことは、俳句は有季定型のギリギリにそぎ落とした制限の下で工夫を凝らしている文芸であるから、すでに充分「型」をもっているので、それ以上にナントカ先生の流儀であるとかそういう制限を加えるとやはり小さくならざるを得ないのではないかという実感である。所属したくない。俳句を「お稽古ごと」にしたくない。俳句というものをただ自分が生きていることの横にあるものとしておいておきたい。そういう気分である。それは「正しい」行き方ではないかもしれないし、また、「それもひとつの『型』であり『オマエ流』ではないか」と言われれば確かにその通りなので、別に型や稽古を否定しようということではない。ただ、自分で自分の稽古をすることを自分の稽古としたいということだ。いや、そんな難しい理屈でなく、ただせいせいするような自由の中にいつも身を委ねていたいという老荘のハシクレが、自分の中でそうさせるだけかもしれない。
何より、この乱暴な句の乱暴さは、「そうはいってもこれは初日の景なので」とへりくだることで、ようよう収まるところに収めているわけであるから、題詠を否定するともはや成立しなくなってしまう。題詠によって、句の意味の分からぬ気分から、世界が転換するような気分を味わう句なので、そういう子供のような仕掛けや邪気を否定したくはない。いわば邪気にまみれた無邪気である。
…と書いていると、虫にでも刺されたのかじんましんか、手首に痒みを覚えた。大方、怪しいことを書き殴る自分を体が咎めたものだろう。この辺にしておく。とりあえず、作句の過程とその間に思ったことを書き留めておきたかったので、独り言のようにここに呟くことにする。