司敬がこんなことをしていたとは…

倉科遼について(活字中毒R)
という情報を得たのでリンク。
むかーし行きつけの定食屋に全巻揃っていたので、全部読んだ。「昭和バンカラ派」。いしかわじゅんの言う「プログラムピクチャー」というのはまさしくその通り。本人も認めている通り、本宮ひろ志エピゴーネン(それも非常に資質の落ちる)に過ぎないし、それが過去の唯一のヒット作だったわけだから、大体彼の書くもののレベルというのは理解できる。ただ赤川次郎と比較するのは赤川次郎に失礼なんじゃないかと思った。彼はもっと世間的に評価を受けている。少なくとも赤川次郎の書くものは教科書に載ったりするが、司敬名義の作品が教科書に載ることは永遠に無いだろうしね。まあそれは冗談だけど。
だから、彼が最近のネオン物のブームに火を付けたとか数々の有名作品の原作をしているという話には結構驚いたが、それはそれとして「良かったね」程度の話である。
が、リンク先の管理人さんはちょっと勘違いしていると思ったのでヒトコト。

結局のところ、「大衆にはウケるけれど、玄人筋には黙殺される作品」というのが存在しているのかもしれません。
僕なども「自分は見る目がある人間だ」とアピールしたいところもあって、「こんなベタな映画なんて、つまんない」と語ってしまいがちなのですが、実際のところ、多くの「前衛的だけれど面白さの欠片もない、作者の自己満足でしかない作品」よりは、「良質のプログラム・ピクチャー」のほうが、はるかに「有益な時間の使い方をした」ように感じるんですよね。そして、多くの「普通の観客」も、そうなのだと思います。

まず「ベタ『だから』つまらない」という批評は確かに間違ってます。しかし司敬の作品がつまらないのは事実です。いくら言葉を飾っても、彼の作品が二流・三流だという事実はどうしようもありません。
次に「前衛的だけれど面白くない」作品が、管理人さんの言うような意味で「面白く」ないのは事実でしょう。しかしその批評もまた明らかに間違っています。前衛的であることと面白いこととは全く異なる評価規準なのであって、前衛的な実験作だから面白くないだろうというのは単なる思いこみです。逆に、いくらエンターテイメントを狙ってもあくびがするほどツマラない作品というものもある。ただ、一般的に「面白く」はなくても価値があるかもしれない作品というのは確かにあって、たとえば「アンダルシアの犬」なんてもうさっぱりワケわかんねえ、って映画ですけど、色々な作品に引用されたり真似されたりしてそれは実際に数多くの面白い映像を生み出す元になってる、その事実は否定できない。批評家しか喜ばない作品だから「一般人のためのものではない」というのは大きな誤解です。
私は結局のところ司敬をやっぱり評価しない。それはまさしく彼が読み捨てられることだけを目指した作品を書き続けているからです。それは歴史の流れの中で見れば、残念ながら何も残さない。たかだか5年か10年のスパンで10万20万の一時的な「読者」を得ることと(しかもその人々は10年したらその作品をほとんど忘れるかもしれないのに!)、20年後30年後まで生き延びて、しかもその間数々の作家達に希望と目標を与え、結果として莫大な数のエンターティメントを生み出すかもしれない作品、と考えてみれば、後者に賞を与え前者に賞を与えないのは全く不思議ではありません。
我々はもう少し謙虚に「専門家」の言うことを信頼し、聞く必要があると思います。インチキ占い師や、ただ声がデカイだけの下品なタレントの言葉を聞いたりするよりは。