政治は嫌いだ

政治が嫌いだ。そして政治を嫌う権利は、そのことで被る不自由を受け入れる覚悟があれば誰にでもある。
現実の国内政治だけでなく、身近な人と人とのパワーゲームにおいても、それは同じだ。人とのパワーゲームが嫌いなので、他人からどう思われても構わない仕事をし、他人からの思惑を気にしないことにしている。それは自分の仕事の幅を狭めているかもしれないが、それで死んだりはしない。むしろ余計なストレスを抱え込まなくて済むぶんだけ、長生きできる可能性が高い。
それは世間的には批判されることかもしれないが、嫌いなものは嫌いだ。嫌いなものを好きなフリをして生きるのは嫌だから、嫌いなものは嫌いだと公言するようにしておきたい。
あちこちで見かける、「世間智」しかない魅力のない人間にはなりたくないし、世の中全てに受け入れられようとも思わない。掃いて捨てるほどいる『優秀な人"材"』など犬にでも食われろと思う。そういう意味ではリンク先の主張に同意しなくもない。つまり自分のような人間に向けてそれは書かれていない、という意味で。それにしても氏は、彼の生きるそういう「世の中」を愛しているのだろうか?それとも相変わらずこれは彼なりの冗談なのだろうか。

(追記)
これはまたなんとも見事なリターンエースですね、という感じの返事がこちらに。言ってることとやってることが見事に一致してる。おまけにタイトルの付け方も上手い。スバラシイ。
しかしヒトコトだけこれにも付言しておきたい。*1
「政治嫌い」というスタンスを取ることももちろんまた一つの政治的行為だ。俺は空気読めないよ、と宣言しておくのは、当たり前だけど十分政治的な行為だ。だから、上にリンクした二つのエントリで嫌われたり生暖かく見守られたりしている類の人種は、実は決して政治力がないワケではない。その意味で、上の自分のエントリの内容は一見自己矛盾している。自分のしていること、ふるっている力が政治力そのものであることを深く自覚しながら、それでも政治的な力というものを一見否定しているという意味において。
ではなんで上記のようなエントリを書いたかと言えば、「空気嫁」論争の本当の問題点に対して一石を投げたかったからである。「政治嫌い」を公言する人に本当は政治力があるのだとすれば、本当の意味で「政治力がない人」というのはどういう人か?それはつまり『他人の政治から身を守る力を持たない』人だろう。政治力の無さというのは、そういうところにもっとも悲しい現れ方をする。他人の言いなりに「空気読まなくちゃ…」と無意味な競争を強いられたりする人々こそが、正しい意味での政治音痴であり権力闘争の敗者であり、日本的パワーゲームにおけるB層なのだ。
だから、「空気を読むのが当たり前なんだ」という政治*2に対して、「空気なんて読めなくていいんだぜ」という政治*3をぶつけることには意味がある。「空気を読むのが当たり前なんだ」という主張は、日本的パワーゲームを用いて勝者と敗者を二極化しようとしているのだから、そうではないよ、という意見を表明しておくことがそれへの対抗として重要だ。あえて空気を読まないこともまた力である。その意味では、分裂…blogよりも激しく"空気を読んで"いる二つめのエントリこそが本当の意味で問題だと思う。
個人的には、「空気を読む力」も「あえて空気を読まない力」も、政治的手役のバリエーションとして持っておいて損はないと思うのだ。当たり前だが、切り札が増えればそれだけ戦略の幅も広がるのだから。その意味で、空気嫁一色になる傾向を憂慮する。

*1:上のエントリのネタばらしのようになっちゃうんだけど。

*2:上の二つのエントリは、どちらもそれを基盤にしている

*3:要するにこのエントリ