ささやかな疑問を解消するのに必要な時間はささやかではない

テーマとタイトルは余り関係無い。いや、無くはないけど。
落語2.0宣言(岡田斗司夫のプチクリ日記)
落語についてアレコレ考える(岡田斗司夫のプチクリ日記)
で、「落語2.0」って話をしてる。まあ2.0と言う言い方自体も含めて一種のjokeだと逃げられそうなんだけど、真面目に考えてみる。
あ、先に立ち位置を書いておく。
岡田氏自体の論考は、基本的に面白いと思っている。オタク学入門だって、確か初版くらいで買った記憶がある。

オタク学入門

オタク学入門

また、いくつかの強い反応は、逆説的に彼の主張の一面の正当性や可能性を示しているということも前提として認めておきたい。ただ、今回の彼の主張には今ひとつ納得できない…というか、話を逸らしている観が拭えない。何から? それが当エントリのポイント。
岡田さん*1は、批判者の主張の核心をこうとらえて、軽く批判している。

(…批判者の文言を三パターン引用…)
 これらの人に共通しているのは、「落語とはこういうものだ」という定義がはっきりしていること。そして「その範囲内なら認められるけど」と考えているらしいこと。
 たぶんこういう人たちは「これは落語」「これは漫談」「これは講談」とはっきり区分けして考えているんだろう。その中間やまったく別の座標軸の作品を見せられても混乱するだけなのかもしれない。
 困ったなぁ。
 粋人であるはずの落語ファンは、どこにいってしまったんだろう?
 こういうことを考えるのが僕にとって「落語を勉強する」ということなんだけど、たぶんそれは彼らの言う「もっと落語を勉強しろ」という意味とは、かなりかけ離れているんだろうね。

個人的に一番納得がいかないのは、このまとめ方。岡田さんは、批判者が一番言いたいことを意図的にずらして捉えているのではないだろうか。批判者が一番言いたいことって、多分一番最後の批判者のヒトコトに集約されていると思う。曰く、「落語と名乗らなければ楽しめたかも」。つまり、どうして落語と名乗らなきゃいけないの?ってとこだと思う。実は、そこに一番の問題があるんじゃないかな。
で、多分そんなことは岡田さんが一番分かっている。だから
僕が落語にこだわる理由(岡田斗司夫のプチクリ日記)
ってエントリがあるんだろう。でも、そこには「昔から落語が好きで〜」以上の内容は無い(まだ『未整理版』とついているわけだけど)。


確かに今日の「落語」は一つの《制度》ではある。けれども、あえて「(落語ではないのに)落語と名乗る理由」がハッキリしめされていない以上、落語という名を借りて制度に足を踏み入れればその制度の中から批判されることを避ける方がおかしいのではないか。なぜなら、そう名乗ることで落語という制度からの庇護*2を受けながら、その制度自体にはダメージを与える*3ことになってしまうのだから。


例をあげて考えてみようか。たとえばこれが他の《制度》であればどうか。たとえば「学校」という《制度》。
『黒板がありチョークがあれば学校という制度は可能である。為になる話でなくても良いが、生徒が話を聞けばそれで良いではないか。教育心理も教育法規も学習指導要領も、メリットは分かるがデメリットもあるだろう。そんな学校を開いて生徒を集めるよ。そんなのは学校じゃない?何を言う。そもそもプラトンアカデメイアを開いた時、そこにはそんな制度はありはしなかった。真面目な教育関係者から怒られたら、「僕は教師2.0ですから」と謝ることにする。教師2.0の定義はたったひとつ「黒板とチョークがあれば良い」ということだけだ。』
さてこの「学校2.0」という《制度》*4は有りだろうか。そしてそこに未来があるように聞こえるだろうか? 率直に言って私は「かような組織に学校を名乗られるのは有害」だと思うし*5、「結局無駄な遠回りをしているだけだ」と感じる。まあかような組織に間違って入学する生徒はいないと思うが、「学校というのはそういう場所であって良い」というメッセージは既存の学校教育に対していくらかの迷惑を与えるだろうし、また「遠回り」と感じる理由は、その「学校2.0」なるものが結局1000年経てば現在の《制度》とほぼ同じ物になるしかないということが大体予想がつくからだ。そもそもどうしてそういう《制度》ができあがってきたのかを考えてみれば良い。何十人、何百人という人の手を経て、それは教育システムを可能な限り効果的で合理的にしようとする努力の累積によって生み出されてきたのである。そういった《制度》をあるいは「型(かた)」と呼んでも良い。そして「型」の意味を無視してただ「型」を捨てたところで、誰も自由になれはしない。「型」というのはそうしたものだ。
たとえば落語の歴史をひもといてみれば(と一介の素人に言われるまでもなくよくご存じであろうとは思うが)落語の世界でも五代目志ん生師匠など破天荒で型破りと称された人はいるが、彼が「型」にはまらないでいられたのは、型を無視したからではなく越えたからである。彼の芸を支えたのが物凄い量の稽古だったとは自伝などによっても語られているが、実際自由奔放に見える彼の芸は、同時に落語の歴史が作り上げた豊富な哲理(上下や間、道具の見立て方、声色の有効性、音曲の取り入れ方、枕〜落ちという流れ、そして寄席という場…等々)という「型」によって支えられており、決して「彼個人が話の面白い人であったという事実」そのことのみによって支えられているわけではない。いや、そこでは「彼という個人」などという概念自体が疑われるべきなのであって、むしろ「志ん生」という個人自体が落語という制度によって作り上げられた、あるいは制度そのものを人格として生きたのが「志ん生」であった、というべきである。*6それが芸というものの「型」の持つ価値であり、また芸とは、職人とはそうしたものなのだ。そういう「型」の価値を岡田さんは「徒弟制度の悪」というその一面だけで、全て無視し去ろうというのだろうか。岡田さんが当該エントリで、落語の誕生期の話と落語の現在の話だけをするのに私は違和感を感じずにはおれないのだが、それは結局その途中の段階で作り上げてこられた落語の「型」を岡田さんがまるっきり無視*7しているように感じるからだと思う。観客・批判者の違和感も、その辺りにあるのではないのか。岡田さんの話自体は面白いのだろう(批判者ですら面白いと言ってるわけだから)。しかし、それが落語が好きな人であればあるほど「あれを落語と言われてもなあ…」と疑問を感じずにはいられなかった…批判の要点はそこではないのだろうか?
そもそも岡田さんの中で、どうして「面白さ」と「制度性」が対立せねばならないのか?
「面白さ」の反対は当然「つまらなさ」だし、制度性の反対はあくまで反制度性であって、面白い反制度があればつまらない反制度もあるだろう。当たり前な話だと思う。もちろん落語の制度は面白さを目的としているはずなのだから、落語が「つまらない制度性だ」と感じてかみつくのは有りだと思うが、それは「面白い反制度性」を制度と見なせという主張にはつながり得ないと思う。2.0としっぽにつけようが、「落語」と名乗ることへの疑問とはそういうことだ。
そう考えて、あらためて岡田さんが引用する桂米朝師匠の文章を読んでみれば、そこで米朝師は決して「型」を無視しているわけではないことに気づけるのではないか。

 「落語家が背広にライターと万年筆をもって立ったまましゃべってもちゃんと落語は出来る。しかし、それをお客様が『落語だ』と認めてくれない。落語は古典芸能であってほしい、と要求する声もたしかにあるからだ」

「落語家は背広にライターと万年筆をもって立ったままでも落語は出来る」と米朝師が言うとき、そこで彼が可能だと考えていた「落語」とは何か。それこそ《制度》性そのもの……つまり落語家の身体に染みついた「型」としての落語のエッセンスそのものではないだろうか。
かような「型」の教育こそは、それこそ徒弟制でもない限り伝えきれない*8と私は思うし、そしてその伝え切れそうにない「型」をおそろしく非合理に見える制度によって伝えることで、落語という芸は発展してきたのではないかと思う。*9思うに、岡田さんは落語の「型や制度」を徒弟制や羽織とカゼとマンダラ…と言ったまさに「形」に囚われすぎて見ているのではないか。しかしそれらはあくまで、上記のような「型」を伝えるための弊害や残滓にあたる部分に過ぎないのではないだろうか?
私は、米朝師匠の考えるような落語家を育成すること…つまり「型」を本当の意味で伝えることのできる人材を育成することこそが、落語を「大衆芸能」として「生かす」ということだと思う。「生かす」とは「生きる」だけではなく、「育ててつなぐ」ことを含む。岡田さんは自分の主張する落語2.0が、どうすれば「育て」られどうすれば「伝え」られるかについてのビジョンがあるだろうか。それ無しに、従来の落語の持つ伝統の力や育成システムを軽視してかかることは危険ではないか。
もちろん、従来のシステムで落語が長期低落していることは事実だと考えて良いと思うし、岡田さんの焦燥も、またエールを寄せている人々の想いもその辺りにあるのだろうと推測はする。だから、岡田さんも落語2.0などとは名乗らず、「部外者から落語の在り方に一石を投じたい」とだけ言えば良かったのだと思う*10。そのための方策として羽織に座布団という「形」を取ることには意味があると思う*11が、岡田さんのしていること自体が一つの《制度》であるような主張をすべきではなかったし、その意味では「《型》としての落語」を尊重する姿勢がもっとあって良かったはずだと思う*12
今後岡田さんの「芸」がどのようになっていくかは分からない。しかし、今回のような批判のとらえ方をしていてはその試みも頭打ちに終わるだけだろうと思うし、そのことを強く惜しむ。「滅びかけの芸能に有名人が手出ししたけど、結局徒花に終わりましたね」というような前例をまたひとつ作りたいだけなら、早めにやめておいた方が良い。それとも、挑発だけはしましたあとのことはよろしく的発想なら、また何人もの人を失望させるだけだからそれも願い下げにしたい。本当に落語を振興させたいなら、岡田さんが才能があると思う若い人を説得して3年でも5年でも大家の下で本気で修行させれば良いし、*13あるいは誰かがコメントに書いているように、「本当に芸のある人の落語」の高座を有料ライブ配信するためのシステム作りにでも協力すれば良いと思う。それが「落語」の「大衆芸能性」を取り戻す、本当の道だろう。

*1:「さん」は慣れ慣れしいけど、ゴメンナサイ

*2:たとえば、ジーンズに折りたたみ椅子の相手の話を聞くのと、羽織&座布団で語る相手の話を聞くのでは聞き手の態度も当然異なるだろう。それは岡田さん自身の「話力」とは別の問題である

*3:「落語はこれでいいのだ」というメッセージは、たとえば下に述べるような徒弟制にとっては随分破壊的なものであり得る。

*4:それが《制度》でない、とはまさか岡田さんは言いはしますまい。

*5:「塾」と名乗るならば全く自由だと思う。

*6:これは、http://d.hatena.ne.jp/flowerhill/20061203で触れられているざこば師匠にあてはめてみても同じだ。彼もまた芸によって人格ができている一流の芸人であり、だから破天荒に見える芸でも客は安心して笑うことができるのだと私は思う。疑うなら、本当にただの破天荒な一般人を連れてきてレギュラーにして見ればよい。多分三日であきられるだろう。

*7:「否定」ではなく「無視」

*8:生き方そのものが落語家である人生を生きるようなこと

*9:その意味では、落語が「面白く」あるためだけには、徒弟制は岡田さん的には「不必要(not不要)」なのかもしれないが、落語が落語で「あり続ける」ためには、少なくともその役割をする何かは「必要」なのだと思う。

*10:岡田さんの試みは、あくまでそういう試みだと思っていたのだが。

*11:この辺りが、最初に述べた「一面の正当性であり可能性」

*12:「前座には、ちゃんと落語協会とかに属してる人を」という批判の意味もその辺りにあるのだろうと私は思う。もっとも、そういう「1.0的ファン」に石を投げたい、というのがそのイベントの意図だったのだろうが、落語でなくファンに石を投じるというのがそもそもいかがなものか。

*13:今岡田さんがやっていることは、そのちょうど反対のことのように私は感じる。