質問に答える

id:takasiymさんの質問に答えます。http://d.hatena.ne.jp/takasiym/20050701

第一問
靖国神社とは、
「国策としての植民地主義に貢献した人間を祀るために作られた場」、ですか?

第二問
「日本の戦争従事者」と「国策としての植民地主義に貢献した人間」を、どのように区別できるですか?

二つの質問に対しては、一気に答えた方が良いと思います。靖国神社の成り立ちを考え、「そこに祀られているのは誰なのか?」を考えることが、必然的に二番目の問の答えになると思うからです。
まず第一に「靖国神社」の成り立ちに関しては、まさしく神社のHPに、『西洋列強が日本を圧迫するという非常に厳しい国際環境の中にあって、日本を立派に近代国家たらしめ』るために、精神的支柱として作られたものだ、と書かれています。つまりそこに祀られているのは日本が「西洋列強の圧迫」に対抗して「近代国家」として独立するために戦った人間だということです。西洋列強の圧迫の中で、日本が食われる側(植民地)ではなく食う側(列強)になろうとして必死にあがいたことは言うまでもありませんしそのことの是非を今問うつもりもありません(当時の日本も生き残り・独立をかけて必死だったわけですから)。しかし明治のはじめ、次々と政府内で打ち出された対外進出論・植民地政策をみれば、そこでいう「近代国家としての独立」が「植民地主義帝国主義国家の建設」とイコールであることは言うまでもないでしょう(重ねて言いますが、そのことの是非を今問うているわけではありません)。
http://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/Koukai/2003/2003.5.13.2.htm
こちらによると靖国に祀られているのは、

明治維新  7751 西南戦争  6971   日清戦争  13619 台湾征討  1130
北清事変  1256     日露戦争  88429 第1次大戦 4850  済南戦争  185
満州事変  17175 支那事変 191218 第2次  2133760 計    2466344

となっています。台湾征討、北清事変。いずれも日本側の死者が祀られているのは言うまでもないことですが、そこに現首相が公式参拝しているというのは、東京裁判におけるA級戦犯が祀られているかどうか以前に大きな問題だとは思いませんか? 「日本の首相は、かつて台湾、朝鮮半島、中国大陸を植民地化する際に犠牲になった人を国の神として讃えています」……そういうことになると思うのですが。余り良い例ではないかもしれませんが、たとえばこんな比喩もまた我々が第三者として靖国問題を考えるときには有効かもしれません。
また、一方で兵士ではない「戦争犠牲者」は、靖国では別棟という扱いです。「戦争従事者」という私の言葉は、兵士以外の人も含めて国策としての「戦争」に荷担し戦争を戦った全ての人……というニュアンスがありますが、当然そこには「銃後を守って」いた人たちなどが入るわけで、それらの人がどうして「国のために犠牲になった人として祀られ」ないのかは非常に不思議です。「国のために犠牲になった人に……」云々という首相の言葉をひいて「綺麗な言葉で飾るな」という言い方をしたのは、靖国神社という組織がこのように「(帝国主義)国家という観点から死者を区分けしていた」組織であり、それが戦後の今もなお続いているからです。国家という観点から、ある死者の死を「価値あるもの」とし、別の死を「それほど価値のないもの」とするような作業が「平和」につながる作業なのでしょうか。あるいは、日本のために必死で反戦運動に従事し獄中で死んだ運動家や思想家は、どうして「国のために犠牲になった人」ではないのでしょうか。彼らは死にましたが、彼らの思想は戦後の復興を支える大きな「精神的支柱」となりました。日本にも抵抗の思想家がいたという事実が、どれほど戦後の日本の青年を勇気づけひいては日本の戦後復興を支えたか分かりません。また一方で、靖国に祀られることに激しく抵抗している人々もいます。そういった訴えを神社本庁はことごとく無視していますが、そういう横暴が許されていることにも強い疑問を感じずにはおれません。要するに、この問題を「きれいごと」で片付けてしまうには、余りにもドロドロとした枝葉がつきまとっていると私は思うのです。
また、アーリントン墓地と靖国神社を比較しておられましたが、これについては両者の性格の違い(たとえばアーリントンでは死者は、ユダヤ教も仏教もプロテスタントも、それぞれのやり方で祀られています)は少し調べればわかることですので、問題にはならないと思います。前者が許されるから後者が許されるという理屈は成り立ちません。むしろ、前者「だから」許されているわけで、靖国がアーリントンのようになるなら、それは許されてもいいかもしれませんが、そんなことに賛成する神社関係者はおそらく皆無でしょう。それが何より「靖国とアーリントンとは全く別」だということを雄弁に物語っているのではないでしょうか。
ちょこちょこ調べ物をしていて、お返事が遅くなったことをお詫び申し上げます。まだ言い尽くしていない所もありますので、疑問の向きはまた追加して聞いて頂ければ幸いです。m(__)m。