「ことのは」問題

…こういうことに、準備も無しに首をつっこむのもどうかと思うが、佐々木俊尚「『ことのは』問題を考える」を読んで、強い違和感を覚えたので書いてみる。
いきがかりはリンク先からさらにリンクされた所に書いてあるし、ここのところ「はてな」界隈で話題になっていた話でもあるので知っている人は知っているだろう。松永英明さんという、民主党自民党アルファブロガーを集めた会議なんかにも出席していた有名ブロガーが、「実は最近までアレフ(オウム)信者だった」とカミングアウトした件で、同じく有名ブログの運営者である泉あいさん、R30氏、そして佐々木俊尚さんがインタビューにいった件だ。


その強い違和感とは、まずもってこういう問題を扱う彼らが、宗教的な生き方というものに対して余りにも人生における準備をしていない(最低限度の宗教というものに対する人生のスタンスを持っていない)ということだ。それはたとえば

当時のオウム教団は、まだその実態がほとんど明らかになっていなかった。一般社会にも実態はほとんど知られておらず、われわれマスコミの側も良く分かっていなかった。ただ「なんだか良くわからないが、不気味な存在」としてしか映っていなかったのである。坂本弁護士事件や松本サリン事件、仮谷さん誘拐事件などはすでに発生し、オウムの仕業ではないかと噂されていたが、しかしどのような人物がどのような意図でそうした犯行に及んだのかは、まだ完全な闇の中だった。

 だから夜の東京総本部でオウム真理教信者たちに接触した私は、ひどく緊張し、手に汗をかいた。周囲は静かな住宅街で、夜八時を過ぎると人影もほとんどない。火炎瓶、と聞いてさらに詳しく話を聞こうとした私は、気がつけば白い服の信者たちに取り囲まれていた。写真を撮られたり、詰問されただけだったのだが、この時感じた恐怖はいまも忘れられない。「自分とは異質なもの」「人間のルールが及ばないもの」に相対したことに対する、大げさに言えば根源的な恐怖だったのである。(佐々木俊尚

僕が思ったことは、少なくともオウムという問題に対して、その数々の事件、犯罪に人々を陥れていった原因を明らかにできないまま「guilty!」とだけ叫び決着をつけようとすることは、むしろこの問題そのものを永久に人々の記憶の中の「未解決、言いしれぬ不安」というカテゴリに押しとどめてしまう可能性が非常に強いということだ。このことはオウムの中にいる、またはいた人たちだけでなく、すべての日本人にとって不幸なことである。(R30)

などの発言にほの見える、オウム=「何か分からないけど怖い奴ら」的なモノの見方である。おそらくこれはR30氏が対談の後半で言っていたような《なんとなくなぁなぁでぬるくつながっている家族的連帯社会としての日本社会が、思想的集団としての宗教集団に対して持つ本能的忌避感のようなもの》というのが近いと言えば近いのかもしれない。*1しかしそれは「宗教」というものに対する余りにも子供じみた恐怖感・忌避感に基づくモノではないか。要するに、上のように考えるR30氏は(そして佐々木氏や泉氏も)世界のクリスチャンもムスリムヒンズー教徒も全部ひっくるめて「なんか分からないけど怖い奴ら」と感じているということでなければならない(実際そうなのだろう)。そんな風に考える日本人は確かに少なくないのかもしれないが、少なくとも世界的には宗教についてそんな風に考える人*2の方が圧倒的マイナーだということは認識しておくべきだ。宗教とは何か、宗教の社会的役割とは何か、宗教の基本的ルールとはどうあるべきか、などについて正面から自分の人生の問題と考える人の方が人類のマジョリティなのである。にもかかわらず自分たちがマジョリティであるかのように誤解し、しかもその上でマイナーを切る、みたいな言説を発表するというのはいかがなものか。自分の人生と宗教との関わりについて考えたことのない人間が宗教についてどれだけのことを論じることができるのだろうか。ひいては彼ら(アレフ)が社会的に「有罪であるか否か」をジャッジできるのか。


そういった人たちが論じうることとは何か。彼らの起こした事件があくまで「社会的にどういう意味をもつ」か?あるいは彼らが今なお「有害な存在」であるか否か?せいぜいがそんなところか。しかしそれはどちらもごくごく下らない問いではないだろうか。前者は裁判に任せておけば良いし、後者については危険で有るとも無いとも言える、それだけだ*3


宗教に対する準備…それは既存の宗教に対する知識とかそういうことではなく「人生というものの根源的な深さに対する自らの恐れをどう受け止めるか、という人間理性への関心」の問題であり、宗教的人間というのはつまりそういうことを考える/考えざるを得ない人間のことだと私は思う。ごくごく素朴に自然のまっただ中で「人間てなんてちっぽけなんだろう…」と考えたことのある人は、その瞬間、ごく素朴な、ある『宗教的体験』をした、と言える。親しい友人の裏切りにあって「人間ってどうしてこうなんだろう…自分はどうしたら良いのだろう…」と悩んだ人は、深い宗教的思索をしているというべきだ。このように誰だって宗教的なセンスというものを心に持っているし、それを大事にする人もいればそうでない人もいる。問題は「そういう人がいる」ということを知識として知りそれを尊重するということを知っているかどうかではないか。それに比べれば、教義だとかマインドコントロールとか、そういうことは事態の非常に些末な部分に過ぎない。


まあ企画者の泉あい氏にしてからが

オウムの問題を考えた時に、「洗脳」だとか「マインドコントロール」だという言葉がよく出てきますが、現実にそれらに該当する信者ばかりであるなら、解決の手段はもっと単純なのだと感じます。しかし、この松永さんのインタビューを読んでいただければわかるように、オウム問題の解決はそんなに単純化できるものではないようです

という程度の問題意識や宗教観しか持ってないのでは無理もないが、少なくともフォローに入った人は自らの宗教観などをもっときちんと整理して望むべきだったのではないか。これはブログジャーナリズムの作法とかweb2.0とかそういう問題ではない。今回の騒動は単に現下の状況が「野球のルールを知らない人が、野球は面白いかどうかを長嶋さんに聞きにいった」みたいな間抜けさをかもしだしているからに過ぎないと思う*4


オウム事件を語るためには、ねばり強い筆力と人間に対する観察眼と、そして人生と宗教に対する深い洞察がただ必要である。そしてその具体的な例としてたとえば村上春樹の二つの仕事がある。今回のインタビューを通読しても、この二冊を読む何十分の一の足しにもならなかった。インタビュアーはせめてこの二冊に書かれていないことを聞くべきであったろう。


アンダーグラウンド (講談社文庫)

アンダーグラウンド (講談社文庫)

オウム事件被害者へのインタビュー集」:オウム事件が「社会的にどういうものであったか」を考えるために。

約束された場所で―underground〈2〉

約束された場所で―underground〈2〉

オウム事件後の信者へのインタビュー集」:「信者の立場でオウム事件がどう捉えられているか」を考えるために。


この二冊を読めば、私がどうして上のようなひっかかりを感じたのかさらに理解して貰えるのではないだろうか。佐々木氏は松永氏について『彼のような優秀な人物でさえも、事件をみずからの内に消化できていない』ことに驚きを覚えているようだが、私は彼が単に「困って」いるのだと思う。何に困っているかというと、自らの宗教的な考え方(上にあげたような)を全く理解できない人相手に、どうやって自分の宗教的な生き方を説明するかということに、だ。松永氏は単に『世間的な責任は賠償という形で教団が背負っているが、自らの「宗教的な人生観」と事件の関係を問われても、自分の理解でそれは無関係だ。そもそも事件は事件でありそれを「消化」しようと必死になる理由自体がよく分からない。分かる人には分かるし、分からない人には分からない、それだけではないのか。』と言いたいのではないだろうか。それが正しいかどうかはともかくとして、そもそもそういう人だから、この人はオウムに足を踏み入れたのではないのか。言いかえれば、そういう人たちだから我々の社会は彼らを受け入れずオウムに送り出したのではないか?*5


だからといって私は別にオウム信者が被害者だなどと言うつもりは全くない。アサハラ以下幹部が裁判で有罪とされるのは当然だし、教団が賠償するのも当然だ。後継教団がその責任を引き続き果たしていこうとするのは、後継をうたう以上は当然のことだろう。問題は「オウム事件について、元信者にインタビューに行こう」という発想が、あたかも名所旧跡にピクニックに行ってブログ記事を書くような気楽さの中で生まれているということだ。『野球を知らない人が長嶋さんにインタビュー』…なら、それは野球というものが社会の中で受けている幸福や地位や長嶋氏のキャラクターのおかげで牧歌的なインタビューになることもあり得ないではないだろう。しかしその意味ではアレフは「呪われた」集団であり松永氏はそんな陽性なスポークスマンではない。どちらかと言えば彼らはこの社会に入り込めなかった人達であり、彼らの入信とは同時にこの社会からの放逐だったはずだ。そう考えるとき、泉氏の企画したこのインタビューは余りにも不用意で無防備だったのではないか。彼らの事件を擁護するのではなく、我々の問題を直視せよと、あるいは問題を直視できないのならせめて相手への配慮くらいはしようよ、と私は言いたいのだ。


自覚せず石もて彼らを追うた人々が、出ていった人々の一部が起こした犯罪について別の出ていった人間(別に罪を犯してない)をひっつかまえて「どうしてあんな悪いことをしたんだ」「今どう考えてるんだ?」「というかそもそもなんで出ていったんだ?」とか聞いているという無惨。*6そういう言葉に対して、私が彼らだったら答える言葉なんて思いつかない。一体何と言えばいい?何を言えばいいんだ?それを「彼らの中には優秀な人間がいるにも関わらず、あの犯罪の原因を考えてないとは驚くべきことだ」とか書いたりするのってどういうことか。そういう言説が出てくるというその状況にひたすら頭を抱えてしまう。繰り返し言う。彼(ら)がそれについて語らないのは、そんな風に聞かれて彼(ら)がただ単に困っているだけなんじゃないか。

私はマインドコントロールされてもないし、それから解けるなんてこともない(インタビューより。松永英明氏)

曰く、『縁無き衆生は度し難し。』
宗教と関わるというのは並々なことではないですよ。

*1:この引用部だけではわかりにくいが、文脈上R30氏が自らの宗教に対する判断や思想の根底をここで言う「人々」の側においていることは明かである。R30氏はもちろん「有罪と叫んでそれで終わりと考えている人々」でないのは明かであるが、それでもしかしまたこれらの「人々」と同じようにこの教団のありように対する「言いしれぬ不安」が自らにあることは否定していないと思う。たとえば私はこの事件に対して当初から「不可解」なものを感じはしても、「言いしれぬ不安」を覚えたことは一度もない。こういうことは、いついかなる時代にも『いかにもありそうな』事件であり、だから彼らが狂っているわけでもそれこそ「人間のルールが通じない奴ら」でもないということは、事件が本当にオウムの仕業かどうか明かではなかった頃からその後現在に至るまで、一貫して自分の中では変化していない印象である。

*2:もっと言葉を飾らずに言えば『無神論者』あるいは『宗教に関する知を持たない人』。

*3:付言しておく。なぜ特に後者が「下らない問い」なのか?それは、オウム教団の「危険度」など、事件前も今も、我々自身の「危険度」とそれほど変わらないからだ。逆に問うが、あなたの周りの「普通の人(とあなたが思っている人)」はそれほど「安全の保証された存在」なのか?たとえば一例をあげるが、『巨人ファン』というのは相当に狂信的だと思うが、彼らはあなた方が漠然と信じているほど「安全な存在」なのか。野球ファンであるということは時に狂信的な宗教を信じているよりも多大な人生のコストを人に要求するし、同じくらいの迷惑を本人や周囲に与えもする。中でも「球界の盟主」というキャッチフレーズを心から信じ、また野球はキング・オブ・スポーツだと信じているような彼らは社会的に見て(あるいは社会で生きている私にとって、と言う方が適切か?)十分危険な存在だと私は思うが、たとえばそれが危険であるとしてその人々に「じゃあ明日から巨人ファン禁止ね」と言ってそれで問題は終わるのか? 「野球」というものを人生のベースにおいている人にとって「野球」とは、単なる趣味でもなければスポーツでもない。そういう人にとって「野球のある人生」は、他の生き方に代え難いモノであり、また心から素晴らしい人生経験なのだろう、多分。極論すれば当事者にとってそれは人間の基本的なあり方に関わるものであり、ホイホイ変えられるというものでもない。それを「なんとなく不気味だから」という理由で無理に変えようとすれば「危険」だろうし、かといって放っておいて安全かと言われればそれなりにもちろん「危険」なのだが、他のことならおおむね我々はそういうことを『適当に流して』生きているのではないだろうか。アレフは安全だ、とか、アレフは危険だ、とか決めようとすることが強いて言えば危険だと私は思う。野球ファンが十分「宗教的人間」であるように、我々が多かれ少なかれ宗教的であることを忘れるべきではない。

*4:まぁそういう記事は三流業界紙なんかのジャーナリズムとは呼べないようなマスコミごっこ記事には良くあるものだが…。たとえば「VoCe」が執事喫茶を無断取材・掲載した一件とか。

*5:まあ、たとえは悪いが、犯罪者と被害者の共犯性という意味では、日中戦争〜太平洋戦争だっておおむねそんなものだろう。戦争に突き進んだ日本も悪いがそうさせた国際状況もその共犯だ。しかし後で述べているように、それは「責任を問うな」という論ではない。

*6:「お前も仲間だろう!」という批判に至っては、もう黙殺でもするしかないだろう。