『社会性』は天から降ってきはしない

内田先生の所で、教育再生会議一次報告案についてのエントリとコメントを読む。
内田先生は、再生会議の報告案の根底にあるのが〈グローバリズム〉の亡霊であろうと指摘しておられる。これに対してDr.Waterman氏がコメントしているのがなかなか面白かった。
Waterman氏は、内田先生の「教育には独自のルールあるべし」という論を批判し、「教育の場に学校の外の「世間のルール」を導入することは必ずしも悪くはない」とされる。その論拠となっているのは

大学の自治とか、世間と離反した教育の世界が存在意義を持っていた時代や状況があることは認めるが、教育の最大の意義は子ども達が社会性を獲得して生き抜く下地を与えることにあると思う。

という点である。現在はそういう時代でも状況でもない、だから「社会性を獲得して生き抜く下地を与える」ために「世間のルール」を導入することも「悪くはない」だろう、ということだ。


言いたいことは分かるし、主張もそれほど間違ってはいない。時代認識については異なる所もあるかもしれないがそれは水掛け論なので置いておくことにしよう。が、それを置いておくとしても私は依然としてWaterman氏とはまったく違う結論に辿り着く。なぜなら彼の主張には、残念ながら根っこの所で重要な見落としがあるからだ。


私は彼の「教育の最大の意義は子ども達が社会性を獲得して生き抜く下地を与えることにあると思う」という主張を是とする。彼はそこから「だから世間のルールを導入するのも悪くない」と結論しているわけだが、彼が間違っているのは内田先生だって「教育の最大の意義は子ども達が社会性を獲得して生き抜く下地を与えることにあると思」っているということを見落としていることだ。


教育とそれ以外の産業の違いは、おそらく『結果に対する予測可能性』という点にあると私は考えている。「人間を育てる」という行為を、方法と結果が明らかに結びつくような産業の発想で捉えがちな誤りが現在の社会の随所に見られることは間違いない。文部科学大臣にしてからがそうだから、自殺が増えれば「『命の大切さを教える教育』をすれば良い」とか、公衆マナーの低下*1を憂えて「道徳の時間を増やせ」とか、そういうありがちな発想で教育を語るのはよくあることではあるのだが、いい加減世間もその誤りに気付くべきではないか。世間のルールを身に付けさせるためには「世間のルールに基づいた教育を」というのも、これと結局は同じである。


学校というのは一種の「修業場」だ。目的とすること以外に気をそらさないために、集まってくる人間の一部権利を制限し、その代わりに様々な設備やカリキュラムを利用することを許可する。逆に与えられる様々な権利や特権もあるわけで、その中で目的とするところを身に付けるために努力をする場所である。たとえば「努力の価値を認める」とか「Try & Error が許される」とか、そういった様々な(世間のルールとは異なる)保護措置は、彼らに有効に自分の学ぶべきコトを学ばせるために行われているのであって、現下のすべての公教育の諸学校もまた「生徒を社会化すること」を大きな目的として、その所謂「独自ルール」を定めているのである。「教育の自治」や、「教育に独自のルールあるべし」という意見は、その意味で、当然ながら「子ども達が社会性を獲得して生き抜く下地を与える」ために必要な措置として主張されているので、そのカウンターではない。Waterman氏が見落としをしていると私が主張するゆえんである。


逆にWaterman氏は学校に「世間ルール」を持ち込んでも良い、と主張されるわけだが、「学ぶべきコトを学ぶために本当にそのやり方は有効か」を(たとえ頭の中ででも)検証しておられるのだろうか。一人二人に対する教育ではなく、たとえば40人という集団を運営していくにあたって「競争原理」を持ち込むことが何を意味するか、そこにどのような教育が現出するか検証しておられるのだろうか。たとえば「結果にのみ価値があり、Try&Errorを許さないという」ような教育方針が「良い学校」をつくるためのBestの方法論だろうか。一対一なら、あるいは強圧でやり過ごせるかもしれない。しかし40人を相手にして、そしてその方針の結果オチこぼれる(競争を強いていながら一人もおちこぼれないということはあり得なかろう)生徒が二人・三人と出てきた時、教室で何が起こるか理解しているだろうか。彼らをどうするのかということに関する方法論はお持ちか。


昨今、多くの予備校では担任制や生活指導といった、「高校的手法」を取り入れている。当たり前だが「世間」には「担任」も「生活指導の先生」もいないわけで、つまり多くの予備校では「世間のルール」で運営するよりも、「その場独自のルール」に従う方が実績を上げる上で有効だと判断しているということだ。
単に「大学合格」という結果を出すため、というシンプルな結果実現のためでさえ、決して「世間のルール」が有効ではないということは、この一例からだけでも見て取れる。それに、予備校に通うのはどう公平に言っても「大学進学を目指す、若者全体の中の65%程度の層」であって、*2高校に限ってみても、90%以上の若者を受け入れている現在の公教育で、「競争原理」を導入することが有効だとどうして思えるのかが逆に不思議だ。競争からこぼれ落ちる大量の人間は、高校から追い出して良いのだろうか。社会はどうやってそれを引き受けていくつもりなのか?*3


そもそも公教育たる高等学校の存在目的が「大学合格」にあるのではなく、もっと大きく「10年、20年、30年と国を背負っていく人間の育成」であることを考えるとき、その(余りにも漠然とした大きく複雑な)目的を達成するに際して、教育に「世間ルール」を導入することが有効だという論議は、余りにも単純すぎる現実離れした議論であることがおわかりいただけるだろう。だからこそ、『その場でルールをでっちあげながら』『人間対人間という一点を唯一のより所として』行わざるを得ないのが教育であり、そのために教師と生徒が直接向き合う学校という場がある。


内田先生が、

どうして、学校には学校のルールがあり、それは世間のルールと違っているのか、それには何らかの理由があるのではないか、という疑問は教育再生会議の委員諸君の頭にはどうやら浮かばなかったようである。

と書かれているとおり、学校に学校独自のルールがあるのは何の為か、そういう問題設定をすることを忘れた現今の教育議論こそは、教育の現場を無視した極端な机上の空論であり、インテリのお遊び、商人の浅慮、芸人のお調子かお年寄りの悪いセンチメンタリズムか……そういったものに過ぎないと私は考える。

*1:それだって何の保証もない話だが。実際”公衆マナーの低下”というのはどのように数値化できるのか聞いてみたいくらいではある。

*2:実際にはさらに制限されると思うが。あくまで「学力以上の進学」を望む向上心のある人間が予備校に通うわけなのだから。

*3:「どうしてこんな豊かな国で高校生が売春など…?」と援助交際を憂える戦前派のお方に、ある人が言ったそうな。「それは喜ぶべきコトでしょう。つまり『売春婦でさえ学校に通う豊かな国』ということなのですから。」……少なくとも、旧制の中学校への進学率は20%以下であったわけで、高校進学率が95%を越える現在と同列に論じるのはそもそも不可能という意味では、このジョークの方がよほど真実をついている。現在の高校は、本来の意味での「高等教育」の場ではなく、むしろ「膨大な無産者を引き受け、『高卒資格』をエサに教育の名の下で社会化する訓練を行っている職業教育の場」として機能しているという面は無視できない。もっとも「大検」の「高卒資格化」によってこの前提は大きく崩れつつあるのも事実ではある。参考:http://www.warbirds.jp/ansq/7/G2000100.html