こっそりと…「陰謀論」は楽しいな、と。

「原爆投下についての久間大臣の『しょうがない』発言」は、こんなとこに飛び火しているようです。
原爆投下の正当性、米核不拡散担当特使が強調(7月4日13時38分配信 読売新聞)
なるほどね。
というか、久間さんが言ったような「アメリカ的見解」、そしてそれへの反発に現れたような「日本の国民感情」のズレはこれまでも重々承知の上で、日本人はその矛盾を矛盾のまま受け止めて未来志向で行くために原爆を『人類のあやまち』と見なす「ヒロシマ」史観のもと粛々と戦後社会を構築してきたのだと私は思っています。そのこと自体を批判し、それこそ「戦後レジュームから脱却」したいなら、当然ながらアメリカと対決するのかアメリカの奴隷であることを認めるかしない限り、そこには矛盾が矛盾のままで露呈してくるわけです。「戦後レジュームの脱却」を高らかにうたい、それが可能であるかのような幻想を振りまいた内閣の責任は重い。
そもそもそんなに簡単に「脱却」できるなら最初からしているだろうとどうして思わないのか。戦後の政治家はみんな腰抜けの「闘わない政治家」で自分だけは勇気ある「闘う政治家」だと思っていたのか。勘違いも甚だしいです。自衛隊が「自衛隊(Self Defensive Force)」でなくてはならなかったこと、憲法九条が九条でなくてはならなかったこと、沖縄が沖縄として犠牲になってきたこと、そして過剰なまでの民主主義教育、平和教育が必要であったことは、高度経済成長をはじめとする日本の繁栄の裏面であり社会的平等の進んだ人権意識の(比較的)高い福祉社会の裏面としていわば必要とされてきたことなのです。それらは全てそのときどきの政治家の「闘い」の果てに生み出されたモノで、決して簡単に切って捨てられる過去ではない。そもそもそうやって他人の仕事を過小評価したところに大きな不見識と油断があります。自分たち(戦後社会の子)にとってそのルーツが「充分に正しかった」とは思いません。我々の親たちはそれなりにダークなこともダーティーなこともしてきたのでしょう。そしてもちろん現在の我々も決してクリーンでもピュアでもない。ただ、そのときどき、瞬間瞬間を最大限考えて懸命に最善手を選ぼうとしながら生きている存在を簡単に切って捨てることなど誰にもできません。後世からそれが十分に「正しかった」とは評価して貰えないとしても、それが「十分にやむを得なかった」のだとすれば、それを批難することはできないはずです。*1従って我々は、今、死力を尽くして「考えられる最善」を常に行う必要がある。それ以外の選択肢は本当に無いのか、我々は本当にベストを尽くしているのか。そこに問題が無ければ、我々は後世に対しても胸を張っていることができるのではないでしょうか。


もっとも、「内閣批判」がこのエントリの主旨ではありませんでした。私は、先日の「アメリカ議会に従軍慰安婦決議をさせる」運動の件といい、拉致問題を取り上げさせて六カ国協議における日本の地位(ひいては国際的な地位)を相対的に低下させる作戦といい、そして「久間大臣の原爆発言を大騒ぎしてアメリカと股裂きに持ち込んだ」作戦といい、ここ1〜2年の戦後日本や現内閣の矛盾点を憎らしいまでに巧みに突く攻撃にほとほと感心させられています。一行目に「なるほどね」と書いたのはそういうことで、その見事な企画力、情報収集・分析力や戦略展開の確かさ、どこを取っても相当の頭脳がそこに関わっているなと感じています。「遠親近攻」を実地でいく見事な外交ですね。日本の何倍も(量も、従って質も)高い頭脳が、今日本をターゲットにフル回転して襲いかかってきている、と感じられます。
それにしてもこんなときに政治的党派争いをやって若者を政治離れに追い込み、そして公務員バッシングをして優秀な頭脳を霞ヶ関から流出させている人々は、果たして自分が後世からどう評価されると感じているのでしょう。これを平和ボケと言わずして何を平和ボケというのか……。*2


そこで一つ提案です。戦後史をきちんと高校の授業で扱うこと。それがどんなに大変なことかは、門外漢である私には正直わかりません。しかし歴史学者がそこからいつまでも逃げ続けていて、本当に我々にきちんとした「歴史感覚」が育つ日が来るでしょうか。自分自身のルーツをこそきちんと、学問的に正確に我々は学ぶ必要があるのではないでしょうか。*3そのためには、政治・経済と連動した『戦後史』をきちんと教える必要があると思います。政治は決して我々の現在と無縁ではない、ということを人々に実感させる意味でも、それは現在最も重要で必要なことではないかと思いますが、実際どうなのでしょうか、そこのところ。そうして、現在の日本を取り巻く状況、戦後日本が抱え込んだ矛盾の内容を国民的に共有していきます。でないと、偏った情報に流されて、扇動家に右に左に振られる人は増えるばかりなのではないでしょうか。今必要なのは、きちんと歴史を学び、しっかりとしたベースを持って日本の未来を考えることのできる人々であり、それができるのはやはり公教育しかないというのが現在の私の結論なのですが……。


(追記)
「原爆は人類への挑戦」=米の投下判断を批判−小池防衛相


はあああああああああああああああああ?
……
あの〜……
今それは無いと思うんですが……


アメリカとの股裂きが一連の話の主眼だとして、その手にみすみす乗ってどうするのですか?
そもそも歴史判断なんて別に防衛大臣の仕事じゃないんだから黙っておけばそれでいいのに。それともアメリカと対立の図式を作り出すことが、小池防衛大臣の考える「日本の防衛」なわけですか。


核兵器一般についての日本政府の見解は現在のところ、なんとも玉虫色ではありますが、以下のようなものです。(分かりやすいように、核兵器反対=青字核兵器(積極、消極)賛成=赤字で色分けしてあります。)

核兵器の廃絶は我が国の究極的目標であり、今後ともすべての核兵器国に対し一層の核軍縮努力を求めていく所存である、この目標に向かうためには実現可能な具体的措置を一歩一歩進めていくことが肝要であり、現段階で期限を切った核兵器廃絶条約の提唱は考えていない
広島市及び長崎市に対する原爆投下も含め、核兵器の使用が国際法違反であるとは言いきれない国際法の根底にある基本思想の一つたる人道主義に合致しないものであるとの意味において国際法の精神に反すると考えている
・世界の平和と安全が最終的には核兵器を含む軍事力による抑止により保たれているとの現実にかんがみ核兵器の使用を禁止する本件決議案には慎重に対処する必要があると考えており、我が国は同決議案に棄権してきている。
非核三原則を堅持することについては、これまで歴代の内閣総理大臣の施政方針演説等において繰り返し表明されており、既に内外に十分周知徹底されている。政府としては、今後ともこれを堅持する方針である。したがって非核三原則を改めて法制化する必要はないと考える。
平成5年 参議院における政府答弁より)

太字の微妙な接続詞や接続助詞をみていただければ分かるように、本来接続し得ないものを無理矢理繋いでいる感じです。日本政府がおかれている状況というのはかくも微妙な立場なのであり、小池発言もその微妙さから一歩も出る発言などしていない(できるわけがない)。

「現実問題として多くの方が亡くなられ、今も後遺症に苦しんでいる方が大勢いる事実を直視すべきだ」とした上で、「歴史的評価は人類にとって挑戦、人道的には認められないことは明らかだ」と述べ、米国の投下判断を厳しく批判した。
 一方で小池氏は、日本が米国の「核の傘」に守られていることに関しては「日米安保条約の下、米国との関係を引き続き堅持し、現実的な抑止力は確保すべきだ」と語った。(上記リンクより)

人道的には許されない(が『国際法違反とまでは言えない』ので)現実的には必要だ』と言ってるだけで、上の政府見解と同じですね。それ以上でもなければ以下でもない、言っても言わなくても同じなら、「米政府を批判」という文脈でニュースになるだけマイナスな発言では。


だからそもそも防衛大臣がちょかちょかとこういう発言をすること自体が軽率極まりないのであって、言わなくてもいいことを言って揚げ足をとられる羽目に…という意味では小池発言も久間発言も発言の問題の構図としては同じであることは覚えておいてもいいでしょう。要するに、ここは本来なら安倍首相が見解を発し久間大臣を罷免すべきだったということです。もちろん小池さんは『火消し』のつもりで喋らないわけにはいかなかった、という面もあったでしょうが、だからこそそこは首相でいくべきでした。これで小池新大臣はアメリカからマークされることになりましたが、これでは結局同じことでは。小池新大臣がアメリカと交渉しようとしても、適当にスルーされるのがオチでしょうね。


ちなみに、原爆投下が本当にしょうがないかしょうがなくないか、については、以下のようなページを参考にされると良いのではないかと思います。
「戦争と原爆のもたらした決意」中国新聞特集Hiroshima
原爆投下問題への共通認識を求めて−長崎の視点から」木村 朗(鹿児島大学、平和学専攻)

*1:この部分、三原順「X-Day」に激しくインスパイアされています。興味のある方は一読をオススメします。

*2:私は別に安易な中国脅威論や陰謀論に与するわけではありませんが、少なくとも日本がアジア諸国、近隣諸国と仲違いしアメリカとぎくしゃくしたら「得をする国」はどこか……と考える程度の頭は持っています。

*3:もちろん、「学校で教えるだけの公平さ」を保てるほど、戦後政治についての研究はまだ十分に解明されていないのかもしれません。しかし、それならそれが可能なレベルに引き上げるために、国には多大なリソースを投入して研究を進展させる義務があると思うのです。