情報教育の可能性について少し(返信)

はじめに

当ブログの過去エントリ(日本におけるリテラシー教育の不可能性)で少し触れた内容について、今日のhotentry記事に言及がありました。
(教育)フューチャリスト宣言の通り、学校制度は終わってる気がする。(高校生奮闘記)


そこで筆者は、現代文の授業について
「ある一つの文章解釈がいかに深くても、千人の多様な読みを越えないのではないか」
「だとすれば一つの解釈・読みを深める能力を養う方向の現代文授業は無意味ではないのか」
「それよりも、情報機器を活用して千人の読みに対峙する授業がなぜ想像できないのか」
と主張します。筆者の不満や主張は部分的には正しいとも思いますが、しかし大筋として筆者の主張には若干の異議を覚えたので、(最初はコメント欄に書こうと思ったのですが)これも長くなりそうなのでTBすることにしました。よろしく。


筆者は
「一つの文章の多様な解釈を想像し、かつ徹底的に読みを深める能力→一握りの個人的な読みを想像する能力(A)」

「大量すぎる『石』情報から上手く『玉』の意見を短時間で収集する術やノウハウ→凄いINPUTから凄いOUTPUTをする能力(B)」
と二つの能力を想定し、AでなくBを育てよ、と主張していると思います。なかなかおもしろくかつ鋭い問題観だと思いますし、Bの能力は現在インターネットを多用している人なら、切実にその必要性を感じているところだとも思います。後者を育てるべきだという意見に、基本的に私は反論しません。


しかし問題は、
(1)筆者の主張する現在の授業はBを育てないのか?
(2)筆者の主張するような授業をしてBを育てることが学校に求められているのか?
という二点です。以上二つについて、順に意見を述べていこうと思います。

(1)について

この点について、私が思うのは、そもそもAとBとはそれほど異なる能力なのか、という疑問です。というのは、「大量すぎる『石』情報から上手く『玉』の意見を短時間で収集する」ために用いる能力とは、決して特別なものではないと思うからです。
「ある文章」から必要な情報をinputする際に必要なのは、
・ある文章の要点を素早く見抜く力
です。そしてさらに「大量の文章」から必要な情報をinputする際に必要なのは、
・その文章が読むに値するか否かを見抜く力
だったりするのではないかと思います。書き手の力量を量れるような能力。で、それを育てるためには「文章を深く読み解く力」はやはり必須なわけで、そうなると、学校の授業でAの力を育てるのは、Bの力の基礎になってるという主張をされたら、必ずしもそれを否定できないと思うのですね。実際に文科省がそう考えているか否かはともかくとして、たとえばなかなか意欲的で熱心であるらしいlonlon2007さんの現代文の先生なんかはそう考えているかもしれません。

(2)について

最初に述べたとおり、Bの能力を最終的に育てるべきだという意見について私は否定しません。ですが、lonlon2007さんの主張するような授業が「学校で」必要なのかという点には若干の疑問があります。一クラス40人という規模がそもそも言語道断であるという話はおいておくにせよ、一人の教師がそれなりに多数の生徒を相手に行う授業という形態で、lonlon2007さんの言うように生徒一人一人が持ってくるソースと比較して生徒のレポートやその反響まで含めてそれを評価する…という作業の膨大さ、それを行う教師の負担があまりにも過小に評価されているのではないでしょうか。そもそも「教師の与えたテーマについて様々な文章を自由に読みそれについて何かを書いて他人に読んでもらいその反響に目を通す」という作業は、今lonlon2007さんがしておられるように自分一人でできることなのではないかと思うのです。それを本当に学校という場で、教室において、授業という形態でやらなくてはいけないのでしょうか。現行の状態で、実際に「できる」生徒はそういうことをしているわけです。ネットが無かった時代は時代で、様々な本を生徒が読むことでそれに近いことをしていた。逆に言えば、自分でそれをしない生徒が「授業で無理矢理やらされて」それでBの力は本当につくのであろうかと私は思います。そう考えると、授業でそれをすることこそ壮大な無駄になりかねない。むしろ学校が育てる力はBの基礎となる力、すなわちAの力で良いのではないかというのが私の感想です。

まとめとコメント

以上を踏まえて、私は「主張としてはlonlon2007さんに賛成」ですが「方法としては反対」ということになると思います。ただし、それでは、現在現代文の授業に不満を覚えているlonlon2007さんに対してそれは間違っていると言いたいのかというと、そうでもありません。このあたりがちょっとややこしい。


というのは、AがBにつながるという実感をlonlon2007さんのような自覚的な生徒に対して与えることができていないというまさにその点に、やはり最初のエントリで述べた現行教育の問題点が影響していると感じるからです。それは日本の教育が「聖なる洗脳」であることと無関係ではないと思うからです。


本来lonlon2007さんの疑問というのは実は担当教師および学校に対して向けられるべきことであり、実はそれが「新しい評価観」の名の下にせっせと文科省が進めている「シラバス作り」の目的でもあるわけですが、おそらく多くの学校で作られている『シラバス』と称されるものは、lonlon2007さんの疑問に対して毛先ほどの解答も与えてくれない代物に過ぎないことと思います。*1シラバスがそのようなものになっていないのは、ひとえに教育を行う側に「説明責任が必要だ」という教育観が無いからです。何を、何のために、どのように学ばせるか、という点について具体的に明らかにする積もりは全くない。それは悪意があるからとか怠慢だからとかではなく、むしろ積極的に不要だとさえ思っているからなのです。


その同じ「教育観」は多分に生徒の側にもある程度共有されていて、つまり本当はlonlon2007さんは教師に「一体この授業は何のためにやっているのですか」と質問する権利があるはずなのに、おそらく彼はそうしなかった。そうすることを彼にためらわせた雰囲気がおそらくそこにはあるのでしょうが、それが日本の学校の持つ(私が上で述べた)文化であり『美しき伝統』なのです。


……
しかし、こう書いてくると、一体jo_30は文科省の方針に賛成なのか反対なのか、従来の国語教育に賛成なのか反対なのか、判然としないよ、と批判されるかもしれません。あるいは批判のための批判をしているかのように見えるかもしれません。
私は、「現行の学校制度は洗脳システムであり、現在求められ今後求められるようなリテラシー教育を行いうる制度ではない」という事実*2、そして、それでも現在文科省が行おうとしている様々な、時には応急に過ぎないにせよ手当てのその方向性を認めつつ、かつそれが現場において悲しいほど上滑りしているという現実を指摘せずにはいられないのです。そして、一番肝心なこととして、我々の教育の一部分、あるいは大部分は『いくら己惚れてみても上滑りと評するより致し方がない。しかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではない。事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない*3』としか言いようがないだろうという、なんとも言えないやるせなさを抱えながらそれを見ているということです。


なんだかとりとめのない話になりました。随分長文になってしまい、話のポイントがぼやけてしまったような気もして反省しています。


最後に、一番はじめlonlon2007さんのエントリのコメント欄に書こうとした文章を再掲します。大体要点を押さえているようでもあり、また少し違ったことを言おうとしている部分もありますが、上と併せてお読みいただければ幸いです。ではm(__)m。


=====================以下、lonlon2007さん宛コメント再掲

ご紹介ありがとうございます。拙文がいくらかでも考える参考になったのなら幸いです。

個人的には、本当は「千のどうでもいい文章を吸収」した上で「一人の神がかった文章」にしびれるほど感動した瞬間に「国語力」みたいなものはつくんじゃないかと思うんですよね。で、問題は「千」を学校でやるのがいいか、「一」をやるのがいいのか、ってとこにあると思います。
多分、多くの国語の授業に関して言うと、国語教師や文科省は「千」を生徒が自宅でやることを期待し(読書でも良いしlonlon2007さんの言うようにネットでひたすらテキストを読む、でも良いと思います)、学校では「一」の方をやろうとしてると思うんですよ。でもlonlon2007さんのように色々な情報をinputしoutputしてる人にとっても残念ながら学校の提示する「一」が魅力的でないのだとすれば、彼らは非常に困ってしまうでしょうね。


ただし、現代文というより「国語」の授業の目的については、必ずしも「凄いINPUT/凄いOUTPUT」だけではなくそこに「国」という言葉が入ることでも分かるようにイデオロギー的なものが入り込む余地もまた常にあるわけです。本当に「国語」の授業を「現代文」の授業にするためには、免許の内容自体を変えないと無理でしょうね。個人的には「情報」免許の内容にもう少しlonlon2007さんの言うような内容を加える方向で指導要領をいじる手はあるな、と思っています。

コメント欄にて長文失礼しましたm(__)m

*1:その点においては、まだしも学習指導要領とその解説の方がマシかもしれません。

*2:結局、前回エントリの主張はここに尽きています

*3:夏目漱石現代日本の開化」の言葉を借りました