マンガは好きですか?〜あえて「イカ」に苦言

唐突ですが、皆さんマンガは好きですか? 私は好きです…それも主に「読み手」として。
私の趣味は、漫画界の主潮流からは既に148000光年ほど遠く隔たってしまっているかもしれないのですが、そういうことが気にならないくらいに好きです。何がマンガであって何がマンガでない、とか難しい話をするツモリは本来毛頭無いんですが、モノクロの絵とテキストで構成される表現形式がとにかく全般的に好きみたいです。で、えてして「好きなジャンル」というのにはどうもハッキリと「好み」を語らずにはおれないものだと思うのですが…
さて。
「どちらかと言えばマンガ好き」な方、御用とお急ぎでない方は、
竹熊さんのブログで紹介されている生徒作品
を見ていただけますでしょうか。みなさんはどう感じられましたか?
……
私は、これは「マンガについて知識のありすぎる人が、その豊富な知識でのみおもしろがれる素人の無茶な挙動をおもしろがっているに過ぎない」と感じました。確かに絵は綺麗だけど、絵とテキストが一つに溶け合っていない*1…それは「現時点でそうだ」というよりも何かもっと根本的なこのかき手の「資質」に関わるものとしてそう感じます。結果、「マンガとして深く響いてくるもの」が無い、つまりこの作品は単なる絵と文であり「マンガではない(少なくともたいした作品ではない)」と感じます。作者はこれを一枚の絵、もしくはただテキストで表現した方が良かったのではないでしょうか。ただ絵がキレイで文章が上手であればいいのなら、作家と画家がコンビを組めばマンガ制作など簡単なことに過ぎないでしょう。「『絵+テキスト』でしか表現できないこと」を表現できるからマンガは面白いんだと思います。
…ただのマンガ読みのくせに偉そうなことを言うと思われるでしょうから(実際そうなんですが)…、せめて一例を挙げましょう。須藤真澄という漫画家がその昔「早苗と青い子供」(『観光王国』所収)という作品をかきました。ストーリー等はこちらに紹介文を見つけたのでそれに任せますが、この物語のキモ(リンク先の表題の台詞)…の河童の台詞場面に、初見当時私は激しい衝撃を覚え、本当にページの先をめくる手が止まり何度も見返して更に打ちのめされたことを覚えています。「無理だ…無理だ…無理だ…」と頭の中で何十回も何百回も「無理無理無理…」が鳴り響き、しまいには河童の顔と次のコマの少女の顔(無言のコマ)を何十回も視線が往復し続けました。
その時の説明し難いその感動を強いて説明してみましょう。
ページを開いた瞬間に大ゴマでいきなりあまりにも単純な描線で描かれたどうみてもギャグ調でしかないばかばかしい顔の河童の絵が大写しで、しかもそいつがあまりにも哲学的で重い台詞をストレートにずどーんと直球で打ち込んで来るわけです。自分が守っている少女の成長を見届けて、そしてその成長と引き替えに「死んで」いくという運命を語り、それを聞いて「だったらわたし大きくなんかならない」と非常にストレートな子供らしい非現実的な台詞を、いかにも非現実的な少女像を描いた画風・作風で描きつつ、その少女に対し何の衒いもなくそれでいて変に偽悪をするのでもなくただ「現実」をすっと差し出してみる、その作者の手つきに打ちのめされたというか。一枚前のページで「早苗…」と一回タメるのも良い、また叫んでいたその少女(早苗ちゃん)が思わず「はい…」と聞き入ってしまうところも良い。物語のテンポが一瞬そこで変調します。その変調が次のコマの破壊力を生み出している…などと言えばあまりにも蛇足的でしょうが、絵柄やストーリーやテンポといった、総称すれば作品の「流れ」とか「空気」とでも言うしかないものが全てあのコマに向けて凝集されている、そういう奇跡のような手腕によるヒトコマだと思います。あれは映画でも小説でも絵でも表現は難しいし、そもそも須藤真澄でなければかけないコマです。同じストーリーを色々な漫画家にかかせたところを想像したりしたらそれは面白いでしょう(単純なお話ですから、多分ほとんどの漫画家がかけると思います)…たとえばつげ義春さんが描いたらどうだろうとか、大島弓子が描くのも結構イケそうだ(でも大島さんの河童ものと言えば「シンジラレネーション」という超名作があるので、それとのイメージ齟齬で無理そうだ)とか、あずまきよひこなら描けるはずなんだけどつい狙ってしまってあの味を出すのには失敗しそうだとか、川原泉ならイケそうだけど逆に傾向がかぶってて須藤の透明感は出せないからダメだろうかとか、個人的には伊藤重夫@ロケットスタジオに描いて欲しいと思ってみたりはするもののそりゃ無理だとか…。まあマンガならそういった可能性はまだ考えられなくもないでしょう。けど、誰が描いても少なくとも「須藤真澄のように」描くのは無理だと思います。あの作品には「須藤真澄」という作家のエッセンス、その「良さ」のもっとも凝縮された味わいがある。大袈裟に言えば、マンガという表現が時として辿り着く一つの極北がそこにあると言っても良い。マンガというのは決して「金もコネもないのでアニメやゲームにできない自分の妄想の絵コンテみたいなもの」ではないんです*2
あのコマは、当たり前ですがテキストだけ切り取っても意味がないし絵だけ切り取っても全く意味がない。あの当時、まだ非常にエキセントリックでリリックで少しポップな作風だった須藤氏が、あの小さな物語をあそこまでさらっと(短いページ数で、しかもコミカルタッチで)描きつつ、それでもあの台詞をあのあまりにも単純な描線と衝撃的なコマ割りで描いたことにとてつもないセンスを感じたのです。あれは見事な『マンガ』です。彼女は骨の髄まで漫画家だと思います。デビュー作「私どものナイーヴ」にしたって、『電氣ブラン』に所収の作品達にしたって、決して「うまく」は無いし成功してる作品も失敗してる作品もあります。けれどどの作品を取っても「マンガのマンガでしかなくマンガでしかあり得ない何か」に充ち満ちている。そして最初に紹介した作品には「決定的にそれが欠けている」と私は感じたのです。
もちろん、それが「決定的に欠けている」けれどもプロとして活躍しておられる方も何人もいらっしゃるわけで、それをもってかの作品の作者である生徒さんを貶めようとも思わないですし(多分真面目で熱心な人なのでしょう)、何か根本的な欠陥だと言いたいわけでもありません。ただ「そういう人は多い」ということ、そして「そういう作品を面白がっている風潮が気にくわない」というだけのことです。作家の問題ではなく、評価者とその時代性に関する問題です。
まあ竹熊さんなんかには、この作品の「欠けたところ」がむしろ「マンガ臭の無さ」として新鮮に面白く感じられてしまうのかもしれません*3。そして「面白い」というのはあくまで「自分がそう感じた」ということに過ぎないのですから竹熊さんが「面白い」というのは別に構わないと言えばそうなんですが(それにしても竹熊さん自身も「ひっかかった」「問題作」「感動」…そして「面白い」と、慎重にしかコメントしていないのに)、もちろんネタ込みでしょうがコメント欄でみんな手もなく妙に誉めてばかりいるのはマンガ読みとしてイカがなものか…「マンガ臭が無いのはマンガ界内的に面白いに過ぎなくて、それを面白いって言ってしまうのはちょっと違うんじゃないだろうか?」と思ったので、書いてみました。いや、絵もキレイだし話も意表をつくものだとは思いますが、マンガ読みとしてアレを誉めてちゃいかんだろ*4、みたいな。
みなさんは私のような「半リタイア」じゃなく「現役のマンガ読み」だから、そういうことが気にならないんでしょうか。それでも、まあ私は個人的に「あの作者の次回作」とかは別に読みたくないなあ、と(『優秀作品webサイト』というのには期待しますが)。みなさんは本当に楽しみなんですか? …ちょっと意見を聞いてみたいなと思ったのでトラバ飛ばしてみたりします。

(追記と余談)
マンガ書評のページって色々ありますが、今回色々検索していて、白炭屋さんと妙に趣味がかぶっていたのが面白かったです。

(追記)
ココログにTB飛ばすと「失敗」メッセージが出るのでつい焦って二度送ってしまうのですが、えてして二重にTB送ってたりしますが……やってしまったようです。二重にTB飛ばしてます、ご面倒ですが削除願いますm(__;)m>竹熊氏ブログの中の人


(追記2)
一部加筆修正(1/18)
続きはこちら。→http://d.hatena.ne.jp/jo_30/20060118/1137544247

*1:絵柄が内容とミスマッチだ、という話をしているのではありません。少なくともこれはミスマッチの面白さを『狙った』作品ではないと思いますし、『狙った』としたらむしろ失敗していると思います。

*2:そういう作品多くないですか? でもって、それは前々回の日記で書いた、「オタクの定義について」と関係する問題だと思っています。

*3:とはいえ、あの作品は、やはり萩尾さんの「ギムナジウム」ものとか読んでいて、更に言えばそこから派生した漫画界におけるボーイズ・ラブものの系譜に対するある程度の知識がないと、面白さ…「落差」は感じられないのではないでしょうか

*4:上に書いたとおり、竹熊氏は必ずしも「誉めて」は無いと思うんですが。