ブログは政治ツール?

Blogというのは政治とずいぶん相性が良いらしい。
こんなニュースがあったが、別にそれがチラシだろうが拡声器を使った演説会だろうが電話だろうが新聞だろうが、政治が自らを新しいメディアに乗せるべく画策するのは当然すぎる位当然なことで、今更こんなことに驚いたり傷ついたりする程innocentにはなれない。またこういったアルファブロガーな人たちが政治に参加することをおかしいとも思わない。彼らがまずそれぞれ才能に溢れた「書き手」であることは疑う余地がないし、またアルファブロガーであるということは単に「口が上手い」ということではなくInput/Outputの制御が上手いということを意味している。その意味で彼らにこういった催しに参加するだけの能力があること、そしてまたそれなりの見地を持ってこういった催しに自覚的に参加していることも同様に疑う余地はない。彼らは多分私より賢いし魅力的だし能力があるし信頼されている(私が彼らを信頼するかどうかはまた別問題だが)。なのに、このニュースに拭いきれない違和感を感じるのは何故なのか。
衆愚政治という単語がある。衆愚政治で検索をかけると、こんなことを書いてあるサイトに行き当たった。出典を明記すると差し障りがあると思うので書かないし、言葉も変えて大要を記すと、

自分は決して賢くない。選挙には行ったが、欺されて投票している気がして仕方ない。自分のように欺されて投票する人が増えれば衆愚政治になるだろう。だから自分は選挙に行きたくない、賢い人が選挙に行って下さい。

というような内容だ。
これを「愚かだ」と切って捨てることもまた簡単だ。そうやって、社会の一員として政治に参加する義務を果たそうとしないこともまた衆愚政治を生む温床である、と。劇場型政治に踊らされることも踊らされるのを拒否して閉じこもることも「自覚的に政治への意志を示さない」という意味で同じく罪深い行為なのだ、と。たとえばこれと同じコトを権力が口にしたらどうなのか。曰く「愚かな人は選挙に来ないで下さい。あなた方が選挙で投票すると、本来勝つべき政党が苦戦したりして大変困ります。そういうノイズはとても邪魔なので、『自覚的に一票を行使』できない人は、投票してはいけません」……明らかに間違った発言と言うべきだろう。なぜなら「賢さ」の基準が一つではないからこそ政治は多様なのだが、選別するためには一つの基準で切らなくてはいけないからだ。「賢さ」というある一つの基準で権力が有権者を選別すると、権力は自らのその基準が誤っていたり時代遅れになったりすることに対する有効なチェックシステムを持たないことになってしまうからだ。
今回、政府がアルファブロガーに声を掛けたという話を聞いて引っかかったのは、「アルファブロガーを集める」という行為に、上に上げたような声なき声を聞いたからだ。
『この人たちに任せておけばいいや』
『この人達なら自分たちの声を代弁してくれるだろう』
『彼らに任せればいい』
『彼らなら有効に自分の声を広めてくれるだろう』
……
Blogというのは誰にでも開かれたツールであり、そしてTBやコメントで連携し合うことによって集団的知(良い意味での直接民主制)を成立させる可能性を持ったツールではなかったのか。それがなんでこんな「人任せ」な発想の下で単なる「人気Webサイト」に毛が生えたような理解の仕方と使われ方をされようとしているのだろうか。そのことにどうして「アルファブロガーな人たち」は声をあげないのか*1
たとえばどうして自民党は自らがチームを組んでブログを開き、民主党のブログと直接にTBし合って、ネットの世界で堂々と政策論議を仕掛けないのか。あるいは一人一人の議員はどうしてそういうことをしないのか。そういう風にBlogが政治に使われるならとても歓迎だ。下らない「政策論議風TVショー」を延々と見ていられる程暇ではない立場としては、ネット上にそういう議論をおいてくれて、またそれに第三者(一人のBlogger)として参加できるというシステムの方が興味がもてる。Blogを政治に使うということはそういうことであって欲しい。それができないということは、結局の所blogは『日本的ツール』ではないということであり、blogを政治に使うというのは夢物語でしかないということなのだろうと思う。
自分が感じた違和感というのは、つきつめればそういう「寂しさ」のようなものだったのかもしれない。

*1:ここで意地の悪いことを考えてみてもいいのかもしれない。結局の所彼らもまた真の"α-blogger"などではなく、単に現実世界の知名度に乗ったり、スキャンダリズムやショーアップされた語り口が売り物の、単なる芸人に過ぎないのだ、と。『論』を闘わせ磨き上げ、その中から価値あるブログと見なされたブログの運営者などでは無いのだ…日本のブログ文化に、あるいは日本の文化にそういう伝統も現状も存在しないのだから、と