「視線の権利」について再び

はてな日記には「リンク元」というのがついていて、誰がどんな検索語でこのページを見てくれているかが少し分かるシステムになっている。(誰が検索したかはサッパリ分からないわけですが。)コレで見ると、未だにときどき「視線の権利」J・デリダで検索してくる人がいるようなので、そういう人むけに以前にほんの少しだけ触れた内容について触れておくことにします。
以下
随分昔、このエントリの「補足」に書いた内容を今書き足していたんだけど(「追記」という形で載っています)、この、雑誌「哲学」(哲学書房刊)の出した特別号('88年8月特別号、二巻3号)は、100ページの写真(ロマン・フォトという手法…写真で構成された台詞のない物語。分かりやすく言えば写真で描いた台詞のないマンガですね。*1)と100ページの論考で描き出されるデリダの視線論…というふれこみなんですが、その前半の100ページの『ロマン・フォト』の構成を見ていると「??」となることが。
たとえば10ページ目。
ここでの「ロマン(ストーリー)」は、「ベッドの上で裸で戯れ合う二人の女性、一方がいらただしげに立ち上がって外へ出る…」という内容で、ちょうど10ページのあたりはベッドから立ち上がった直後なんですが、ここが奇妙。
画面は上半分が縦に三分割され、そこでは立ち上がった女性が服をきるシーンが連続でウツされ、下半分にはベッドでそれを見つめるもう一人の裸の女性が大写しになっている。そこまではいいのですが、

左【上シャツのみ】【上シャツでズボンを手に】【上シャツ・下ズボン】右
下【            寝そべって見つめる女        】

という順になっている。上三つを右から見ると「??」としかならないです。これはあとで別の女性がベッドから起きあがるシーン(p22)でも同じで、

左【かがんで裸】【立ち上がって裸】【立ち上がって着衣】右
下【        着衣で外に歩き出す女      】

という具合です。どう見ても「話の流れ」は左上からスタートして右下へ進む構成です。
もちろんこの話は全体として「訳者あとがき」にあるように逆転やモンタージュ的構成をしているお話なわけで、大きなレベルで言えば時間の転倒などがあることが問題でないのはもちろんなのですが、こういう1ページ(あるいは1断片)の中の時間の流れがおかしいと、そもそもそれが「断片としての意味を失う」レベルになってしまうわけで、これは明かなミスだと思うのです。
たとえば、後半、二人の少女が登場し、戯れながらやがてガラスを割るシーンがありますが、そのシーンについて「論考」が語るのはこんな調子です。

とても濃いお化粧をした二人の少女の一人、マリーが、ガラスの額に入った写真、彼女たち自身の生成の写真を、頭上に持ち上げる。彼女は一瞬モーセに似通う。それは法の画面、見ることの権利の画面だ。彼女はそれをこうして頭上に掲げ、それから床に投げつける。ガラスは立法の石版のように砕ける。

では、このシーンの画面構成はどうなっているでしょうか。今度は、画面がまず縦に二分割され、、更にその二分割の右側が上下に横分割されています。

見開き右ページ
【  壁の画を手          】【壁の画を手にとって向き直る少女 】
【  に取る少女(後ろ向き)    】【向き直って、頭上に振り上げる少女】
見開き左ページ
【 大写しで、砕けるガラスの額の中で、少女が今まさに画を振り下ろしている】

…上の説明に基づけば、どう見ても話は左写真、右上写真、右下写真…と進行しているわけで、これを右閉じにして右上から読ませようとするととても奇妙なことになってしまうのは自明だと思います。砕け散るガラスの中に、今まさに振り下ろす少女がいる…というのは確かに「物語の中の時間の逆転、コラージュ」だとは思いますが、向き直って頭上に画を振り上げた少女が、次のコマで壁に画を掛けているように見えてしまう(右上→左下流れ)右閉じの現在の構成は、単なる本の構成ミスでしかありません。つまり、これらのページを一端バラして、前後を入れ替え(実際は裏ページの並びが変わるため、簡単にはいきませんが)左閉じの本に構成しなおせば、一目瞭然なことで、そうして始めて読者の視線は「左上から右下」へ向かって素直に流れていくと思うのです。
とまあ、こんな感じで、実際当時出版元にこの点を指摘し出した手紙は無視されたみたいなんですが、その後訂正はされたのかなとずっと気になっていたわけです。みなさんも実際に手にとってご覧になられると良いのではないでしょうか。

*1:そう言えば、昔々石森章太郎の「ジュン」を本屋で立ち読みして「……」とか思った記憶が。ついでに面白かったのでこちらもリンク