『考える力』って何だろう?

色々と調べたり「考えたり」してみた。

 このように、わが国の子どもは、「テキストの解釈」「熟考・評価」とりわけ「自由記述(論述)」の問題を苦手としていることが明らかとなった。この結果は、PISA型「読解力」の課題が「読む力」にとどまらず、「書く力」や、特に「考える力」と関連していることを示唆している。
したがって、各学校において、子どもたちのPISA型「読解力」を向上させるためには、教科国語の指導のみならず、各教科及び総合的な学習の時間等の学校の教育活動全体を通じ、「考える力」を中核として、「読む力」「書く力」を総合的に高めていくことが重要である。(読解力向上に関する指導資料文部科学省

最近あちこちで「考える力が弱い、考える力をつけなくては」という声を聞く。教育だけでなく一般にも。たとえば新入社員に対して「自分の頭で考えることができない/マニュアルがないと何も出来ない」とか。
ふむ。とりあえず
A)「考える力」って何だろう?
B)ある問題について『考え』ているとき、我々はどんな『力』を使っているんだろう?
C)そして、そういう力はどうやって育つのだろう?

これをB→C→Aと考えることで、なんか結論がでるんじゃないだろうか?…と思って考えた。


B)ある問題について『考え』ているとき、我々はどんな『力』を使っているんだろう?
まず必要なのは「問題を見付ける力(課題設定能力)」。そこに何か問題があると見付ける必要があります。そのためには、色々な事を知っている(知識)、感じることができる(感受性)、部分を総合できる(概念化能力)、が必要です。以上が「課題発見」。
次に「整理し、解決する」わけですが、論点を整理する能力(記憶力、整理能力)の次の段階「解決へのプロセス」で
 ・解決を発想・直感する力(ヒラメキ)
を重視するタイプと
 ・推論を積み重ねていく力(論理的思考力)
を重視するタイプに分かれる気がします。従って前者は素早い例示、知識を関連させる力、観察・洞察力などを重視し、後者はじっくりと問題に取り組む力、論理を操る力、抽象的思考力などを重視します。もちろん「どちらもある程度ある」ことは大前提なのですが、解決へのプロセスでどちらを『より重視する』か。これによってその人の「考える力」イメージは大きく異なるのではないでしょうか。たとえばこちらの「美術と教育blog」サイトの意見などは前者を重視し、たとえば「論理的に考える力」をつける本―どんな詭弁も切り返す新戦略こんな本が考えているのは後者だけなのでしょう。「考える力」とひとまとめにしようとする際、このズレは結構大きく重大な問題を引き起こすと思います。
ちなみに文科省がいう「考える力」にはこの両者が含まれると思います。「自由記述できない」という問題がまず前提されているのでそこから考えてみるわけですが、これは「パッと書くべきことをイメージできない」ことでもあるし「自分の着想を論理的に展開させていくことができない」ことでもあります。そしてそうなれば当然誰かが書いた文章を読んでも「他人の書いたものの核をパッとイメージできない」し「他人の書いたものを論理的に読み解くこともできない」でしょう。つまりそこでは「考える力」と「読解力」は裏表の関係にあると言って良い。だから「どちらかに偏った主張」はやや危険なのではないでしょうか*1
そして「解決」へと導いていくのは、まず何をもっても意志の力(企画力)であり、次に論理的な筋道をつくる(構成力)、であり検証する力でしょう。
最後にそれを他者に「表現・伝達」する力があって(知識・技能を踏まえて)ようやく「考えている」とみなされるのではないか。あらためてこうして書き出してみると「考える力」というのは人間の脳の働きの全体性そのものと言っても良い。従って『考える力をつけましょう』という提言は『賢い人になりましょう』という程度にしか具体性のない提言だと言えるのではないでしょうか?問題は、上に上げたような能力のうちどれが欠けていてどれを補わなければいけないのかという論議ではないかと思われます。

(この項書きかけ)
(付記)
上に書いたようなことを図示してる人がいた。
これからの時代に求められる「国語力」の構造モデル図(文部科学省)
おおむね賛成ではあるけれども、こことか見ても少し概念定義なんかが粗雑な印象を受ける。たとえば

国際化が急速に進展する中では,個々人が母語としての国語への愛情と日本文化についての理解を持ち,日本人としての自覚や意識を確立することが必要である。

母語としての国語』なんてフレーズを読むともうぞわぞわ気持ち悪くなる。「ことばと国家」(田中克彦)とか読んだこと無いわけはないと思うんだが、どういうことか。
たとえばそもそも私にとっての「母語」とは関西弁であって、標準語ではない。「国語」と言えばそれは標準語も標準語以外も含むのだろうが(たとえば古典の多くは古典関西方言や古典関西宮廷方言だが)明治から起こった近代東京語を中心とした言葉は戦後標準語とはまた違うし、この「母なる部族」と「近代国家」の無自覚かつ無神経な同一視は、これはもう明らかにわざとやってる嫌がらせとしか思えないレベル。

*1:ただしこれは美術と教育blogさんのエントリへの「批判」ではありません。美術と教育blogさんの主張の主旨は「読解力・思考力論議が余りにも「言語的なそれ」に偏重した結果「ヒラメキ=イメージを操作する力」が余りにも軽視されていることへのカウンターとして、そして下に述べるように「今必要なのは何かについての議論」であると思っていますし、それは私がここで言いたいこととそれほど違わないと思っています。両者の関係をどう考えるかについては、あくまで少し慎重であるべきだ、というのが上のニュアンスの違いになっているに過ぎないと思います。