ドイツから

ドイツに行っていた知り合いから、道路にこんなプレートがはまっていました、という話とその写真を見せて貰いました。「HIRE WOHNTE (人名)(生没年)AUSCHWITZ」ドイツ語は読めないので分からないのですが、ネットでざっと調べた限りで間違いなければ「○○はここに住んでいた。〜年アウシュビッツで死んだ」という意味だと思います。アウシュビッツ犠牲者の家があった場所を示すプレートなのでしょう。

それに対して返事を書こうと思ったのですが、どうも直接メールにして書くとうまくない感じがするので、メールの返事はシンプルにして、覚え書き代わりにその返事をここにアップしておくことにします。

公に、犠牲者に対して『トラウアー』を示すことができるドイツの状況。もちろん「戦争責任」に対するとらえ方や戦後処理の違いなど様々な経緯はあるわけですが、こういうものをきちんと形として残すやり方は、とても健全だと思います。
かたや、敵や植民地各国への犠牲者を追悼するどころか自国の…たとえば原爆被害者に対しての追悼すら記憶のかなたに風化させる一方で、戦争に従事した人間だけは仰々しく「神」とまつりあげて戦犯も一緒くたにして(それも自らの政治的パフォーマンスのために)『追悼』してみせる政治家が高い支持率を集める国。伝統や心の問題…などと糊塗してみせても、それを声高に語る人間の不健全さは隠しようがない。それに比べれば、ひところ妙に批判にさらされた広島の原爆碑の文句の方がはるかに健全だと思います。

例の碑文については、「『過ち』の主体は誰?アメリカなのか日本なのか?」というような批判が設立当初からあったそうですが、これは戦争の悲惨に対して『トラウアー』を感じ一人の人間としてそれを表明した言葉だと思えばどこにも不明な所の無い碑文です。一瞬にして10万人以上の人間がこの地上から消えたという事件に対して、我々は何を語ることができるのか。それに比べれば、誰が正しかったか間違っていたか、などということを問うことがいかに下らないか、それに気付かなくてはいけない。
「ここに○○が住んでいた。1942アウシュビッツで死んだ」…というプレートを見て、「だから何?」とか「誰が彼らを殺したのか?」などと問わなくてはいけないと考える人間がいるとしたら、それは馬鹿者か致命的な感性の欠落症です。もう二度とそんなことが起こってはいけない、起こしてはいけない。いかなる理由があってもそれは正当化され得ない。見る者はそう心に刻め、とそれは訴えているのだと思います。