ズローチ…
村上春樹が受賞を逃したので巷で話題のノーベル文学賞ですが、とある日記*1でasahi.comによる選考委員へのインタビューを知る。どうもありがとうです。
インタビュー記事
■過去の失敗
同氏が「恐ろしい例」としてあげたのは、「大地」が世界的なベストセラーになり、38年に受賞したパール・バック。ヘルマン・ヘッセら、より優れた候補がいたのに、文学性を吟味しないまま、初めて最終候補に挙がったバックを決めたというのだ。
「歴史的にも自慢できない。30年前からは最終候補になった初年には授賞しない規則にし、じっくり選んでいる」
話題性だけで選んで後悔した、と。しかし30年ていう時間のスパンがいいですね。
会員全員が読めない言語の作家のときは、英独仏語訳で読み比べる。場合によってはわざわざ翻訳してもらい、極秘に専門家に論文を求める。
このへんがどうも……。翻訳の出来不出来ってやっぱしあると思うけど、それを越えても伝わるような「文学性」を持たないと「世界文学」では無いということですね。まぁそりゃそうなんだし、文学というなんら絶対的な基準のないものを一元的に評価するためには色々切り捨てなきゃいけないものもあるんでしょうけども。
いや、難しいですね。せめて「現地の専門家協力者によるレポートを提出して貰う」という風にはならないものか。作家はやはり、自分が書いた言葉のネイティブに読んで評価してもらいたいもんなのではないだろうか。
個人的には
日本の現在の作家については、答えられない。でも、日本にはつねに目を向けている。68年の川端康成氏も94年の大江健三郎氏も、翻訳作品をたくさん読んで決めた。安部公房氏がもし生きていたら受賞したかもしれない
というところでおーっ、となりました。「たまたま英訳が名作的出来だったから受賞したんだよ」的ヤッカミ風味神話が解消されたのも良かったのですが、安部公房の名前が出てくるあたり、大江健三郎が受賞したときのエピソード
スウェーデン王立アカデミー委員は「大江健三郎がノーベル文学賞を取りましたが、もし安部公房が生きていたら、先に取っていたんじゃないですか」という島田雅彦氏の質問に、なんの躊躇もなく「もちろん、そうでしょう」と答えたとのこと
(参考)
なんて話を思い出して感慨深い。つまりあれだ。賞が欲しけりゃ長生きしなさいってことだね。
*1:やたらと本を読みまくる高校生の日記です。面白い。つーか、3年?受験?