余りにも今さらなので逆に驚いた

小泉元首相が嘘つきで郵政民営化も含めてアメリカにしっぽ振ったに過ぎない…というのは普通に常識に属することかと思っていたのですが、今日のホットエントリに
郵政民営化とは一体誰の利益のためだったのか
こんな記事が入っていたので驚いてしまいました。みんな分かってて自民党に一票を投じたんではなかったの? この国の行方をアメリカに丸投げしたんじゃないの? と。
当ブログでも、郵政選挙が終わるまではid:yasukanaさんとかと激しく「郵政民営化の是非」について論じていましたが(お元気でしょうか…)、選挙結果を見て呆気にとられて、あれからすっかり投げ出したキリです。いやはや。
まあ、今あらためてみんなが冷静になってきたということなのか、それとも単に民主が参院選を睨んでそろそろ動きだし、それに対して「ちょっと自民に票やりすぎたな」感が国民に出てきて「まあチコっと他にも入れようかな」というムードがこういう記事を生むのか……まあなんでもいいんですが。あらためて検討するのも良いことだと思います。そして「郵政民営化」って何だったのか、あの狂乱の中で正しいことを言っていたのは誰だったかを再度検討してみるのもいいんじゃないでしょうか。しかし、

「要するに、郵政民営化ですべてがバラ色に変わるという小泉前首相の戦略に国民はだまされたのです。当時は、郵政事業がどれだけ儲かっているのか、ほとんど議論されなかった。(上記リンク先より引用)

これは明確にです(失礼に聞こえたらごめんなさい)。それを論じてる人なんて沢山いました……大手のマスコミを除いて。それを見なかったのは、端的に言って見なかった人が「見ようとしなかった」からに過ぎません。
以前、教基法改悪に関連して書いたとおり私は「問題は政府・国家だけにあるのでなく、あとで政府・国家に欺されていたと言おうとしている人たちにもある」と思っています。*1しかしその「私たちは騙されていたんですよ」という言葉自体がなんと甘美な「騙し」であることか!


たとえば、職場にいる50前後の、若い頃は左寄りノンポリ、ここ数年どこやらの新聞に煽られてかにわかに保守色を強めたオジサン達を見ていると、「ああこの人たちはこうして一生騙され続けるのだなあ……」と思ったりします。ぼーっと人の言うことを受け取るだけの人に、親切に「本当」を配って歩いてくれるサンタさんなどこの世にいません。同じ所に座ってただ口を開けてまっているだけで色々なものが貰えていることがおかしい、と気付かない限り、少しでも「本当」に近づくことなどできないと思うのですが…。


まあそんなわけで、せっかく小泉劇場の呪縛から解き放たれそうになっているなら、リンク先記事の内容も話半分で聞きつつ、かつ重要なことは人任せにせず調べるという程度の努力がやっぱり大事かなと思います。なんかすごく当たり前ですが。


(追記 5/2_9:00)
コメントへのお返事を書いていたら長文になったので、こちらに追記します。
>sasadaさん
ううむ……そ、そうなんですか……(ーー;)
そうだといいんですけどー……
なんかあの人たちえはむしろ先頭に立って旗降ってる気がするんですけどー(笑)……



もっとも、たとえば、戦時下の情報統制の中で投獄され「転向」声明を出すことによってなんとか獄死を免れ出獄した中野重治が、食う道が無く、泣く泣く戦争末期に「文学報国会入会届」を提出したのに対して、プチ左翼青年だったのにいつの間にかちゃっかり情報局に入り込んで身を立てていた平野謙が、中野の入会届けに余りにも痛ましいものを感じそれを握りつぶしたという話を聞いたことがあります(多分、ネタ元はhttp://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/karatani/010916.html)。長い物に巻かれることでむしろ「何か」を隠し守ろうとした人と、長い物に巻かれまいとすることで結局膝を屈するしかなかった人。この場合、どちらの人生にも同じだけの切実さがあり、評価できる点と批判点があるように思います。そして自分はそのどちらなのか…?と問われると、今のところなんとも答えようが無い。たとえば「平野は卑怯だ!」の一言で断罪するのはたやすいことですが、今の時点で容易く平野を断罪する言葉に一体どの程度の信用がおけるものか。なんとも言えませんね、そこは。
ただ、この小さなエピソードも所詮「直後に平野を支えていた体制が崩壊したこと」によって顕わになったことだという点も抑えておきたいです。もし体制崩壊がこなければ、このささやかなエピソード自体が歴史の波間に消え、二人の転向者が残っただけだったでしょう。歴史に「もし」は無い、とはよく言うことなので、そこは考えても仕方のないことかもしれませんが。


あと、ついでに「*1」への追記を。
「誰もinnnocentではありえない」という一節を書きながら、「これは受け取られ方によっては『一億総懺悔論=究極の無責任論』に見えるよなあ…」と考えていました。「誰もがinnocentではあり得ない」という言葉は容易に「みんなに責任があるのだから『誰かを責めるのではなく』みんなで結果を引き受けようよ」という妥協に辿り着きかねません。
結局のところ、誰もが責任を感じることと、どこに罪があったかを厳しく問うことのバランスをどの辺りでつけるべきなのか、特に事態の「当事者」となった場合にどうなのかについて、自分自身まだきちんと判断がついていないからこうなってしまうのだと思います。これはどこかで一度まとめてみなくてはいけませんね。
上に上げた柄谷の言葉を借りれば、これもまたささやかながら私の個人的な「戦後の準備作業」なのでしょう。さてそうなると、そろそろ「戦争中の留学先*2」も考えておく必要があるなあ……。

*1:だからといって、たとえば声をあげていたから自分がinnocentだ、などと主張したいわけでもありません。結局の所流れを(少しでも)変えることができなかった時点で、誰もinnocentではあり得ないのですから。

*2:「戦争中は江戸に留学していました」by石川淳