憲法記念日に思う…わけでもないが

憲法改悪論議に絡んで決まり文句のように言われる「戦後民主主義教育」の悪弊(とされてる)「徒競走で手を繋いでゴール」的「悪平等」主義。でも、ホントはそれって、かつては「悪しき日本の横並び主義」って言われてたものの変形に過ぎなくて、民主主義でもなんでもないどころかむしろ逆だ。
実際、民主主義の理想が燃え立っていた戦後10〜20年の間はそんな風景は日本に無く、かえって'80年代に入って「ミンシュシュギ」にそういう妙な解釈をほどこす変な大人が増えてきたのは、おそらく'70年代日本の「全共闘学生運動」とその挫折の成れの果てというか、まあ要するに負の遺産だろう。この辺り、過去の自分たちをロマンティックにでなく見つめ直すのは大変かもしれないけど、ぜひその世代には見直しをお願いしたい。かつて清算不可能と言われたあれらの運動も、その現在進行形な部分も含め正の部分負の部分を揃えてそろそろきちんと清算して欲しい……と下の世代としては思ったりする。でないと、たとえばいつまで経っても「悪平等」の風景は日本から消えてゆかないだろう。


この本なんかは、その辺りを埋める意図で出版されたものなのだろう。

思想としての全共闘世代 (ちくま新書)

思想としての全共闘世代 (ちくま新書)

学生運動全共闘の時代の総括に「初めて○○した」とか「〜という達成がなされたのは、その歴史上はじめての…」とか言う言葉を見る度に、下の世代としてはため息をつきたくなる。この人たちは30年経ってもまだ運動に酔っているのか、と。自分達の歴史を、100年、200年というスパンで捉える視点が無いままか、と。そう批判すれば「つまりそれが全共闘的というもので…」という反論が来るのは分かるが、全共闘全共闘的にのみ論じなくてはいけないという決まりなど無い。
自分たちの時代を「断絶」でなく日本近代史の「連続」として論じることができなければ、後の時代に何も引き継がれず、それは歴史の谷間のあぶくにしかならず、遂に無意味な運動として消えゆくほかはない。今、まさに社会から引退していく世代よ、本当にそれでいいのか? あなた方の残り20年余の人生は決して「優雅なセカンドライフ」なんかではないはずだ。「ファーストライフ」の落とし前をきっちりつけるための時間、そうでなくては、誰も納得しはしない。少なくとも私は。