対カタール戦

仕事場から急いで帰り、近所でキックオフから15分、そのあと家人を迎えに行って後半45分をTV観戦しました。


TVのアナウンサーは『ナカムラシュンスケナカムラシュンスケナカムラシュ……』と、まるで呪文のようにうるさいくらい唱えてました。別に俊輔、何もしてなかったんですが。走ってパス受けてパスまわしてただけ。長い芝が少しやりにくそうでした。山岸はよく走ってたし、高原もよく決めるとこ決めてファールも貰って充分に仕事してました。遠藤はまああんなものでしょうし、羽生はロスタイムに飛び出して仕事したし、中村憲剛がプレッシャーの中でボール貰ったらすぐ後ろ向くのもいつものことだし、DFも一応それなりに決定機は潰してたと思います。まあそのぐらいは、彼我の力の差を考えたらそれほど賞めることでもないのかもしれないけど。


で、試合についてはこういう記事
通訳も涙!オシム監督ブチ切れ説教
もあるように残念な感じでしたけど、まあ選手が「リスクを冒せない」「上手にプレーするけど怖さがない」「指示待ち」「すぐ後ろを向く」「その時間で何をしようとしているのか不明」「要するにアマチュア」……など全てをひっくるめて結局いつもどおりやんという気持ち。
かつては中田ヒデが怒っていたその点を今はオシムが怒ってるという、ただそれだけの違いじゃないでしょうか。かつてジーコがなんとかしたいと優しく願っていた(叶わなかった)ことを今オシムは失意と落胆の中でかみしめているだけでは。それは言い古されたことですが、選手個々の問題というよりファン・マスコミ全てを含めた日本社会の構造的気質の問題では。もちろんオシムもそんなことは分かっていて、怒ることも含めて一種のパフォーマンスなんでしょう。まあ今回オシムが怒りをぶちまけている対象(それはマスコミ、ファン、その他サッカーを取り巻く胃全てなのでしょうが)はあれを「パフォーマンス」なんて間違っても考えない方がいいと思いますが。


結局、社会全体に「集団責任」的気質が蔓延しており、その悪い側面がああいう組織+個人の両面が必要なスポーツに顕著に現れているんだと思います。「組織のために個人を生かす」発想では無く「組織のために個人を殺す」ことが是とされるような漠然とした雰囲気。「私は組織のために何ができるか」という発想ではなく「組織は私のために何をしてくれるか」しか考えない雰囲気。前者は一見個人主義的ですが集団的です。対して後者は一見集団主義に見えますが、その本質は徹底的に小ずるい個人の利益第一主義です。「集団責任」社会は前者であってこそその価値を発揮できるのに、残念ながら今日の社会は後者の雰囲気でびっしり固められている。


その悪しき無責任主義の風潮は同時に「ヒーロー」「リーダー」待望論を常に生み出します。自らの姑息な計算に基づき責任リスクを少しでも多く他人に分散しようとする性癖とその委託された責任(言い換えれば権力)は、分かりやすくリーダーとして「振る舞う」人にやがて集中されていきます。声が大きく頑固で自分の意見をまげない豪放磊落な、しかし人情味・人間味がある人情の人、基本的に派手なことはしないが存在感や華のある「天皇」的リーダー……かような分かりやすい「リーダー的人物」は、恐ろしいことにリーダーにとって本質的な「社会をリードする能力」を全く問われないまま(なぜならリーダーらしい「見た目」こそが、日本社会で求める「リーダーの資質」そのものだからです)圧倒的な権力を手中にしリーダーの座に座ることになります。


つまりアナウンサーが『ナカムラシュンスケナカムラシュンスケナカムラシュ……』と呪文を唱えるのも「分かりやすいヒーローを作る」という局の方針だったんでしょう。それが日本人の頭には馴染みやすく分かりやすい、とTV局は考えているから(そして実際その通りなんでしょう)。彼が「期待されるリーダー」として振る舞ったり、あるいはせめてその像を外れないうちは、無条件でそこに責任と判断を委ねることを厭わないのが「悪しき無責任社会」の住人達です。しかし、そのリーダーが期待される像から外れはじめたとき……一番分かりやすいのはリーダーが全体に対して「オレだけに期待するな」「目覚めろ」「お前らはなってない」と正論をつきつけてきたとき、日本人は一転そのリーダーを生け贄に祭り上げはじめます。私は今回の上の報道を見て、オシム監督が今その瀬戸際にあるのではないかという危惧を抱きました。それは記事の中に紹介された妙なエピソードのせいかもしれません。

ロッカールームに怒声が響いた。一瞬で空気が凍りつき、全員が立ちすくむ。1メートル91の巨体が眼光鋭くイレブンを見下ろし、身ぶり手ぶりを交えて怒りをぶちまけた。
 「おまえたちはアマチュア。オレはプロだから死ぬ気でこの試合に懸けていたが、おまえたちはそこまで行っていなかった」
 オシム監督の迫力のためか、それとも敗戦のショックか。通訳が泣きだし、半分以上も訳せない異常事態。悔やみきれないドロー劇に、老かいな指揮官も我慢の限界を超えていた。
(引用は上記リンク先)


私はオシム監督の「怒り」は、別に忍耐力が限界に達した/我慢ができなかったということではなく、指導者・指揮者として必要とされる場面であり正当だと思います。言ってる内容も別に間違っているとは思いません。代表監督は勝利しなければいつクビになるかもしれないという意味では嫌が応にも冷徹なプロフェッショナリズムを求められる存在ですし、しかし代表選手は「その国の代表に必要な選手」であれば代表選手としてのポストは監督よりずっと安泰です。監督は簡単にクビに成り得ますが一流選手はそう簡単にクビにはできない。その意味で「代表選手としてのプロフェッショナリズム」というのは、なかなか維持するのが難しいのかもしれません。それを身につけるには、ここでいう「プロフェッショナリズム」を単なる職業意識とかビジネスに通じるドライな合理主義と理解するのではなく、一人の人間・サッカー選手としての生き方−−自分は「プロフェッショナルなサッカープレイヤー」という人間であるという意識−−を24時間持っているかどうかが問題となるでしょう。そのレベルでサッカーと向き合っている選手は、残念ながら今の代表にはほとんどいないということをオシムは言っているだけです。


ただ、私が上記記事を見て感じたのは、なぜこの「プロフェッショナリズム」の話の流れで泣き出して通訳できないアマチュアな通訳の話が出てくるのかという違和感です。それが批判的文脈でもなんでもなくてポンと投げ出されていることの不思議。記事を書いている人は、自分自身のその矛盾に全然気付いていなさそうなところが非常に奇妙です。


結局記者は、オシムの話の中身よりも「通訳まで泣かせてしまう鬼のようなオシム像」の方がニュースバリューがあると思ったというだけのことなのでしょう。オシムの言うことを理解するよりもオシムのその「鬼のような態度」だけを理解した、と。結局その背後にあるのは「(罪のない通訳まで泣かせてしまうというのは)上に立つモノとしていかがなものか」というイヤ〜な「期待されるリーダー像」のイメージなのではないでしょうか。何もしなかった/できなかった中村俊輔は特に批判も検証もされず、正当な主張をし指揮官としてすべき事をしたオシムが「リーダーらしからぬ(日本的な意味で)言動」をしたことだけが叩かれるという構図。いずれマスコミがオシムを生け贄に祭りあげていくとすると、どうやら今回の記事なんかはその先触れになるのかなという感じを受けました。そしてこういう形で生け贄を作り出していくという体質が、格下に余裕で臨み、みんな仲良く上手だね的サッカーに終始し、はては決定機にパスを回す変なFWを生み出している日本社会の構造的体質なのだな、と。これから先もサッカーを見続ける限り、我々は同じ失望を感じ続けていくことになるんでしょうか。それはイヤじゃありませんか。


そんなわけで、色々と考えてみました。一人一人が考えて意見を述べることは、ささやかながらその体質を変えるための一つの試みだと思うので。