行政府の長の責任と職務

<死刑>「執行は自動的に」…鳩山法相、辞職後の会見で

鳩山邦夫法相は25日、内閣総辞職後の記者会見で、死刑制度について「判決確定から半年以内に執行するという法の規定が事実上、守られていない。法相が絡まなくても、半年以内に執行することが自動的、客観的に進む方法がないだろうか」などと述べた。法相の信条や宗教的理由で左右される現状に疑問を呈した形だ。
 鳩山法相は「(執行命令書を出す)職責から逃げようというのではなく、『次は誰を執行』という話題になることがいいとは思えない。(確定の)順番なのか、乱数表なのか分からないが、自動的に進んでいけば『次は誰』という話にならない」と続けた。また、法務省が執行の対象者を公表しない現状については、「遺族感情や他の死刑囚の心情などがある」と、公表になじまないとの見解を示した。

まず、あらかじめ言っておきますが私は死刑廃止論者です。その立場において、死刑という制度はありながらどちらかといえば執行に消極的な現行の運用をそれなりに認めております。


さて、福田内閣で再任された鳩山法相の見解ですが、もっともらしくニュースで報じられるような内容ですか?と疑問に思います。理由は二つ。


1つめ。現在、本来は「判決から6ヶ月以内に執行せよ」と定める法があるにもかかわらず、死刑執行まで平均7年5ヶ月かかっているという話があります。(1次ソースは消えていますが、こちらなど複数で紹介されています。)理由は、多くの場合法務大臣が署名を避けるからで、今回の鳩山法相の発言もこれを踏まえてのことですが、それが「自分の責任で人を殺すことは誰だって嫌だ(から署名を避けるのだ)」というレベルで語られることについて、その内容の薄さに本当にがっかりさせられました。なぜ「司法」でなく「行政」の長が死刑執行に際して優越した権限を持つかという根底を考えれば、つまり「社会(複数)のために死刑囚(一人)の命を奪う行為」については「善悪/倫理的判断」が馴染まない、という考えが根底にあるのではないかと思います。
よく知られる「一人の命は地球より重い」という言葉があります。これが数学的には成り立たない言明であることは言う必要もありませんし*1その矛盾した比喩でしか語り得ないところに我々の生の実感があることを言った言葉であること、そしてそこに一つの人間的な真実があることを押さえておきたいと思います。本来一つの命を奪うと言うことはそれだけ重い問題です。それを無視して「悪だから殺して良いのだ」と語るのは、倫理的詭弁であり一種の判断停止でしょう。「悪だから殺して良い」ではなく、「悪だから殺さなければ仕方ない」というのが死刑の論理であり、つまり我々は「善悪/倫理的判断」で彼らを殺しているのではなく、単に「彼らと共存できないからやむを得ず彼らを永久に追放する手段を実施している」に過ぎないということです。多くの禁錮・懲役刑があくまで「最終的に彼ら(罪を犯した人間)と共存すること」を目指しているのに、死刑にはそれがない。つまり死刑の論理は、他の刑の論理とは決定的に異なっているということです。
では、死刑を行う論理とは何なのか。それは、倫理の延長線上に期待される「司法」の判断ではなく、単に我々と彼ら相互の利益調整の問題、つまり「政治」の判断に基づくものになろうかと思います。死刑執行に行政の長がサインするという行為の意味はそこに求められるのではないでしょうか。法相の署名に際し、法相には徹底的に「政治的な」判断が求められるのです。それは単に「死刑を執行したらオレの党の人気が落ちて選挙に影響が出るかなあ…」とかそういう話をしているのでなく、「我々」の民意が「彼ら」との共存に決定的に耐えられないとなったとき、やむを得ず刑が執行される*2のであって、法相にはそこを責任もって判断することが求められている(その意味で法相の署名は徹頭徹尾『職務』であり、法相個人の判断や、まして官僚の事務的政局的判断が執行を左右するべきではない)ということです。
私個人としては、簡単に死刑が執行されてしまう社会…つまり彼らとの共存について一切思い悩むことなく「殺せ殺せ」の合唱で自動的に死刑へと進んでしまうような社会は、余りにも危険だと思います。社会は彼らとの共存に様々な形で(たとえば思い悩んだり哲学について啓蒙するという形で)コストを支払うべきだと思います。それがひいては社会全体を明るく、そして重いものにするのではないでしょうか。これは、たとえて言えば『グレた息子を抱えた家族が、どこまで彼を抱え込むかについて、苦渋の道程を歩まなくてはならない』…といった問題と相似しています。果てしなく抱えることはなるほど現実的ではないかもしれません。しかし一方「悪即断」的な功利的価値観を「家族間」に持ち込むことが逆に家族間の倫理に対して決定的な悪影響を及ぼすことを私は危惧せずにおれません。やむなく彼との縁を切るとすれば、それは一時の感情でなく一定の規範によるのでなくまして憎悪によるのでなく、彼と彼の家族のために、いわば「愛情」の名の下に行われなければならない。
本当は彼とのつながりを失いたくない。どこまでも対等な人間同士として向き合いたいという気持ちがありながら、しかし現在の関係をこれ以上続けると双方が破綻するという限界までの努力の果てに涙ながらに縁を切るという行為が現出する……死刑廃止論者の*3私が、それでも現在の死刑制度を100%否定しないとすれば、つまりそういう「果てしない努力の果てにやむを得ず」という形での、いわば「愛」の名の下の死刑しかあり得ません。そんな制度などあるわけがないという人もいるかもしれませんが、現在の制度はまさに、限りなくそれに近く運用されきたと言えるのではないでしょうか。*4
どうして日本の死刑が「自動的に執行されないような」形をしているのか。どうして現行のような運用がなされてきたのか。なぜ歴代の法相が死刑に対して慎重な姿勢を持ってきたのか。本来それは、人が人の命を奪うに際して考えなくてはならない上記のような議論と向き合ってきたからだったと思います。残念ながら、今回の法相の発言にはそういう議論の重みがカケラも見いだせませんでした。それが「これが、まともなニュースとして報じるべき問題か?」と疑問を持った第一の理由です。一見政治的な見解を述べたように見えて、実はこれはほとんど失言レベルの発言ではないか。


2つめ。彼は「職責から逃げようというのではなく」と言っていますが、おっしゃるように自動化した場合その「責任」は雲のように消えて無くなるとでも思っておられるのでしょうか。そんな馬鹿な話はあり得ないので、法相が判断しないとなると、つまり裁判官の判断が最終判断となり、司法に、死刑判決を行う裁判官に全ての責任が行くことになります。それは上で述べたように、死刑を善悪判断に切り替える思考停止を意味するだけでなく、全ての裁判官を死刑執行者にするという大きな職務の転換を意味します。裁判官は、法に照らしてある人の罪が死刑に相当するかどうかを判断する法の番人でなく、彼の喉に手をかけて首を絞める死の宣告者になれということです。それはいわば裁判官に政治家たれと言うに等しい。
司法関係者がこれをどう判断するのか私には分かりませんが、それでも冷静な判断を下さなければならない全ての裁判官は、法相が投げ出した分だけ襲いかかってくる行政的な責任を背負い、過大なストレスに苛まれることになるでしょう。そして、大きく言えばそれは我々の社会の三権分立のあり方そのものも揺るがすことになる。一体法相はそういう点についてどう考えているのでしょう。
結果として、行政的判断を行えない裁判官が、「死刑」を宣告することをためらって判断を保留する可能性が一つ、そして逆に、裁判官が「死刑」を平然と宣告しながら内心激しいストレスに苛まれ、今以上に心身を病んで行く可能性が一つ。どちらも我々の社会にとって有益な結果とは思われません。もちろん、置かれた立場の変化を考えず、変わらず淡々と「死刑」を宣告する裁判官もいるかもしれませんが、それは上の二つ以上に恐ろしい事態(誰も死の宣告に責任を取らない社会の到来、という意味で)です。この意味でも、法相の考えはどうひいき目に見てもご自分の発言の影響を考慮しない、浅はかなものに過ぎないと言えると私は考えます。


以上二点から、私はこのニュースを「法相、うっかり暴言というレベル以上のものとは取れませんでした。死刑制度についての見識とか、一つの政治的立場というには余りにも考えの浅い意見が、こうして普通にニュースとして流布することに、非常な失望を感じています。


(追記)
TB先の碧猫さんの所でも、話題にのぼっているそうです。また、そちらで、村野瀬玲奈さんという方のブログに掲載されている『フランス国民議会の死刑廃止法案の審議における法務大臣ロベール・バダンテール演説の訳文』へのリンクがありましたので、メモをかねて追記します。

同じニュース:asahi.com
http://www.asahi.com/national/update/0925/TKY200709250116.html

*1:A>A×60×10^9+|地球上のその他生命他|?

*2:裏を返せば、共存に耐えられるかあるいは将来的な共存が見込める限りは、必ずしも刑が執行されることは必要ではない

*3:それでも理想論者でなくどちらかといえば現実論者として

*4:たとえばこちらに、『たとえ相手が宅間であっても、「生きて償わせることこそ最上」という価値観を我々は捨てるべきではないのではないか』という意見がありました。私が言いたいこともかなりこれに近いです。http://blog.kansai.com/Silverleaves/18