熱く語る人間を私は信用しない

北村弁護士、麻生応援を熱弁(ニュー速アワーズ)

いいですか。人間の言葉が説得力あるというのはどういうことなんですか。政治の問題は難しい。だけどその難しいことをわかりやすく具体的に話せる人間ってのはどういう人間なんだ。その政治の本質をわかっているからわかりやすく、我々に話すことが出来るんですよ。いいですか。政治の話をわかりやすく出来ない人間ってのは二通りあるんだ。 一つは本音を語ろうとしない人間。(拍手)

もう一つは頭の悪い人間なんだ。 この二つしかないんだ。 そこが麻生太郎と全く違うところなんです。もう一つ言わせてもらいます。 私は、例えばですよ、私はお膳立てが全部揃わなければ出ません、て。私はお膳立てが全部揃わなければ出ませんと、こういう風に言う候補がいたとすれば、これは弁護士の目から見ると非常にプライドの高いお方だ。(笑い)それはどういうことになるか、いいですか、この人にもし日本の未来を託した場合、ある局面では国益よりも、国民の生活よりも、自分のプライドを優先するだろう。そういうもんなんだよ。いいですか。それをわかるだろう。私にはわかる。 (拍手)

いいですか。『巧言令色鮮矣仁。』というのはどういうことですか。本来難しいはずの話を誰にでも分かるように語る。いかにも耳障りのいいカッコいいことを言う。それはどういう人間なんだ。分かりやすくヒロイックに語る人間には二種類いる。頭のいいナルシストか、頭のいい詐欺師だ。聞き手に気持ちのいいことを語って聞き手を酔わせて、そこから利益を得ようとする人なんだよ。


いいですか。こういう人にもし日本の未来を託した場合、ある局面では国益よりも、国民の生活よりも、自分のプライドを優先したり自分の個人的利益を優先したりするだろう。そういうもんなんだよ。いいですか。それは、どちらも一国の宰相にしてはならないタイプの人間なんだ。前者がK…であり後者がA…だ。まあ、そんなこと言っても誰も聞きはしないだろうが。


「円天」が破綻したというニュースが今日ヤフーで流れていた。あんなタワケた商売が成り立つともし本気で信じていたとすれば大変お気の毒だが、大半はいい大人だろう。「あるわけないと分かって進んで欺されていた」だけの人間を、たとえば税金を投入して救済するとか裁判沙汰にして余計な税金を使うとかそういうコトに心から怒りを覚える。ハッキリ言えば『あるわけない儲け話』を信じた振りをして欺されていた振りをしていた人々は事実上運営側の共犯者であり、だから彼らが被害者の振りをして運営を訴えたりするならば、かようなことで税金を浪費させようとする彼らをむしろ告発したいぐらいの気分である。


同じコトを、何度でも扇動政治家を国の宰相に据えようと無邪気に期待する人々全てに対して私は言いたい。あなた方のほぼ全ての人に、あとで「欺されていた。私は知らなかった」と言う一片の権利も無い。


(追記)
コメント欄への返事を一部こちらで。
>冬さん
仰ることは分かります。そして冬さんが仰ることは、上のエントリを書いたとき私が考えていたことと必ずしもズレてもおりません。「大切なのは語る内容であり、熱く語ったかどうか、という語り方を重視しすぎるのは如何なものか。」という批判はなるほどあり得るだろうと思います。


しかしそれでも私は、「熱く語る『人間』はその時点で信頼に値しない」と書きました。私にとって重要なのは、「語る内容」と「語り方」の向こうに見えてくる「語る『人間』」です。上のエントリで私が言いたかったのは「熱く語る」という行為自体が100%信用できないという話に近い。なぜなら、本当の「熱さ」は「語る」という行為になんか無いだろうと思っているからです。
考えてみてください。もし本当の「熱さ」を心に持って語ろうとするならば、眼は虚ろ、ろれつは回らず口から泡を吹きながら、顔を真っ赤にして手足を振り回す子供のようになるしかないでしょう。たとえば、一色登希彦さんによって漫画化された「日本沈没」7巻で、熊本城に上って「にっぽんわ、うみに、しじゅむぅっ!」と叫んだ緒方総理のように*1。そうでない「熱さ」など所詮「演出された熱さ」に過ぎない。ならばそんな「熱さ」は信ずるに足りませんし、そのような「演出された熱さ」が私たちに対する演説として有効だなどと人を舐めた計算をしている人間を私が信頼するに足りないと切って捨てていけない理由が私には思いつかないのです。



>halさん
大変面白い課題をいくつかいただきました。
まず一つめについて、下のコメントに一度書いたことを再掲します。halさんのご意見に適切に答えるために必要かと思いますので。
まず、私のエントリに含有されている「北村批判」の骨子は、「『政治の話を分かりやすく語る』というのはそれ自体危険なことであり、本来難しいはずの話を簡単に語ってくれる人を無邪気に信頼する行為は支持できない」というものです。あくまで随筆的に(従って、本来論理的な話を比喩的に)語ったエントリなので、YKKさん、halさんはじめ訪れていただいた皆様にうまく真意を汲んでいただきにくい書き方をしたことをお詫び申し上げます。ただ「この件についてストレートに書きたくない、という意思表示」もまた、今回の私のエントリに含有される「内容」だったと考えていただければ幸いです(予想以上の方に来ていただき読んでいただいたため、急遽その「内容」については諦めることにしてこの追記を書いています)。
以上をふまえれば、件の演説の「〜には二種類」という文言は私の「批判」の骨子とは事実上無関係な揶揄だということはご理解いただけるかと思います*2。以上が一点目。
次に「民衆は偉大なる愚で良い。愚なる民衆を乗りこなしてこその政治家」というのは大変興味深い意見ではありました。そのような、およそ人間離れした優秀な「政治家」なる生き物が実在し得るならば、仰ることは正しいと思います。しかしそれは幻想ではないかというのが今日までの私の偽らざる実感であり、従って己を優秀な「政治家」だと誤認する人の暴走を止めるためにこそ民主主義という制度が人類史の中で比較的妥当なシステムとして採用されてきたのだろうと私は認識しています。
それをふまえれば、およそ議論を尽くした結果、民衆の一人が「自分に誠実であらんとして結果愚かなる行為をしてしまうこと」が「国に対して不誠実」な結果をもたらしたとしても、それを全員で引き受けることが民主主義のルールではないかと思いますし、少なくともデマゴギーによる政治がそれよりマシなものである保証というのは一つも無いのではないかと思うのですが、逆にどうしてそれほどデマゴギーによる政治を信頼できるのか。「民主主義がベストでない」のはもちろんとしても、「それよりマシな政治制度が(今のところ)無い」ということもまた、今我々が生きている社会の基本的な了解事項だと私は考えているのですが。
最後に、いささか言葉遊びじみるかと思いますが、「なぜ、あなたには止める権利がなく、「覚悟」を迫る権利があるのですか。」についてお答えします。まず一言で言えばそれは「私と『彼ら』は互いに他人だから」です。「私と誰かは基本的に他人である」ことは、民主主義の基本的な同意事項であると私は考えています。その上で、「彼ら」が、仮に私の視点から見れば愚かにしか見えない、崖の下に身を投じるような行為をしているとしても、それが「彼ら」視点でもっとも妥当な行為であり、かつ私に基本的に「彼ら」全ての人生に対して完全な責任を負うことなどできない以上、私にはそれを「止める」正当な権利があろうとは思いません。「ろ」さんのコメント風に言えば、私も彼らも互いに「バカ」なのであり、「バカ」に「バカ」の馬鹿げた行為を止める権利など無いのは自明だと思います。
ただし、私は「彼ら」に、私主観では身投げにしか見えない行為などして欲しくはない、というのもまた事実です。だから、私は「私ならそれを知れば身投げなどしないのだが」という事実を「彼ら」に伝える…私の中ではむしろ「義務」と呼びたいようなその行為を私が行うにあたり、「彼ら」にそれを止めさせる権利がない以上、それは私にとって正当な権利の行使であり得ると考えます。そしてもちろん、その事実を無視する権利が彼らにあることも、言うまでもありません。
再度まとめますが、相互に他人であり愚かである我々は、相互の行為に対してそれを止めさせる権利を持たない以上、「彼ら」には身投げをする権利があり、「私」には「イヤ、アンタそこから落ちたら死にますけど?」と覚悟を迫る権利がある。私が「止めているのではなく、ただ覚悟を迫っているだけだ」と書いたのは、つまりそういうことです。
以上述べたことでご理解いただければ良いのですが、そうでなければおそらくそれは*3、相互の「民主主義」理解が異なるという所に、ひとつ大きな原因があるのだろうと推測します。
以上、長々と失礼しました。

*1:ああいう「熱さ」なら、いくらか信頼に足ります。あれを「語って」いると表現していいなら、確かに、私の不信は必ずしも100%というわけではないかもしれません。

*2:ちなみにこれは、urajima氏のブクマコメントへの回答でもあります。

*3:まずもって私の文章力不足の問題はあるにせよ