ツンデレvs悪女論のもう一つの視点(追記有り)

(注:ロリコンファルid:kagamiさんの所からお越しの場合、こちらの「返信」も併せて御覧ください。)以前からその名前の響きの美しさにヤられ密かに巡回していた「モエリロン」*1blogでこんなエントリがあがっていました。
ツンデレと悪女の違い(萌え理論Blog)
しかし、元々切込さんの主張の「主たる部分」じゃない所に噛み付いた結果として、切込さんとうまく斬り合ってない……というより、切込さんは既に

『悪女』じゃなくて『悪女っぽい表現』の一バリエーションが『ツンデレ』に過ぎないって言いたいだけだよ。つーかそれほど詳しくないオタク文化をベースにして話されてもついていけないよ。それよりコンテンツマーケットの理屈ベースでなら話すよ。要するにもう君たちとは話したくないよ。

というモードに既に移行している模様で残念です。双方の主張が切り結び発展し合うことは望めないでしょう。しかし、これは話としては中々面白い話だと思うので、舞台を別に移してもっと発展して欲しいなと思ったりします。


そんなわけで、話がここで止まらないように、無謀にもちょっと一石を投げてみようかなと思いました。


そもそも「ツンデレ」の解釈を過去歴史に求めるという(切込)観点は本当に正しいのか?という視点。


この点について私が思い出すのは、昔読んだ「浮浪雲(はぐれぐも)」(ジョージ秋山)の一エピソードであります。


ご存じの方もいらっしゃると思いますが、「浮浪雲」は幕末の品川宿「夢屋」の主人浮浪が、「おねえちゃん、アチキと遊ばない?」と女の子に声をかけまくる(割に別に執着しているわけでもない)テキトーな性格と異様に立つ剣の腕でもってふわふわとキナ臭い時代を爽やかに切って捨てていくというジョージ秋山的人間哲学漫画*2……とまあ、そういうような話なんですが、浮浪の人物造型が非常に魅力的で面白く大変な長期連載作品であります。なにせ小学館漫画賞を受賞したのがもう三十年近く前の昭和53年という……。


で、その中に浮浪の息子新之助が通う寺子屋の先生で、まあ性格も真面目で容姿も普通だけど何かぎらぎらムンムンして今ひとつ女性とうまくいかない『青木先生』という人が過去のトラウマになってる女性体験について浮浪に話すというシーンがあったのですね。若気の至りで、遊ばれているとも気づかず夢中になって、仕舞いには金を盗まれて男と逃げられた…という。でもって青木先生は(本人なりには)爽やかに「いやー、もう女なんてコリゴリです!」と言うのですが、それを聞いた浮浪は心の底からニッコリと笑ってひとことこう言う。

女ってものは、ホントに可愛いもんですね。*3

……ヤラレタ!やられましたよ。ジョージ秋山先生。漫画の登場人物に「人間の器の差」というヤツをまざまざと感じさせられましたよ。なんという余裕。なんという器。これをフェミニズム的にどうとかこうとか言っても、そんな批判浮浪には人間的器のレベルで欠片も及ばない…少なくとも浮浪には全く「痛くない」のは明白です。だって多分そう言いながら、浮浪は、青木先生の中二病的愚痴も含めて「人間って、ホントに可愛いもんですね」って思ってるに違いないのですから。もちろん理屈としてそれが別に難しい理屈でないことは明白ですが、本当にそんな考え方・生き方ができるかといえば疑問。その意味で、私は、そういう超越的人間を一人の人間というキャラクターに造型して見せたジョージ秋山先生の手腕に感嘆するばかりなのであります。たとえて言えば、伝説の聖者の姿を描いて見せた、聖書や教典の書き手に匹敵する人物造型力、物語の構築力。


さてジョージ秋山先生の話はおいておいて本題に戻りますが、この話に出てくる女性は萌え理論blogさんが仰る分類で言えば非常に典型的に分かりやすい『悪女』でしょう。少なくとも青木先生にとっては、まあ人生を破滅させる級の悪に比べれば小悪党レベルであるとはいえ、『悪女』以外の何者でもないわけです。しかし浮浪にかかっては、彼女は単なる『可愛い女』になってしまう。誘惑されればホイホイやってくるでしょうが欺そうが裏切ろうが浮浪はニッコリ笑って「可愛いですねえ」という眼で見るばかり……一体そんな相手に対して『悪女』というキャラクターを貫き通せるものなのか。つまり『悪女』というのは一種のサディストでもあるわけで、相手が嫌がり怒り泣き叫び恨み言を述べるからこそ存在しうるキャラクターなわけです。だから、普通には『悪女』とされる存在も浮浪の前では雲散霧消してしまう。彼女らは、そうなってはもう浮浪に惚れるかそこから逃走するかしかない。浮浪の前にいたら彼女らの『悪女』というステータスは崩壊してしまうのです。


このことは、つまり『悪女』というのは男の側の「ダマサレタ」という恨み辛み世迷い言泣き言と対象者への未練執着がない交ぜになって見いだされる幻想に過ぎないというその事情をよく表しています。つまり『悪女』という性格典型に何らかの実体があるのではなく、「ダマサレタと主観的に感じている/見なされている男」から逆算して導き出された対象の姿を我々が仮に『悪女』と呼んでいるに過ぎないのではないか。ならば、『悪女』とは何ぞやという論を展開し様々な『悪女』自身の性格分類をいくらしたところで、そこから結論を導き出したり何かを論じたりは出来ないのではないでしょうかと私は言いたいのです。


そして、この事情は『ツンデレ』についてもそうなのではないでしょうか。浮浪の前で『ツンデレ』は『ツンデレ』たり得るのかというと、多分無理でしょう。いくらツンツンしようとしても、浮浪のニッコリにやられたらもう素直になるくらいしかすることがない。逆に、そう考えてみれば我々は数々の『ツンデレ』の傍らに、彼女が恋する「鈍くて、内気で、ひ弱なsomeone」の姿を思い出せるのではないでしょうか。『ツンデレ』キャラが、必ずしも周囲からも同じく『ツンデレ』キャラ扱いされているとは限らないことは、賢明な皆さんならよくご存じでしょう。そう『ツンデレ』は誰よりもまず恋する相手/好意の対象者に対してまず『ツンデレ』なのであって、誰に対しても『ツンデレ』である人というのは余り無い*4。どちらかといえば「○○ちゃん、なんで××くんにはあんなにキツいの?」とか「アイツ、外では猫かぶってるのにオレには厳しいんだよな…」と言った類のベタな台詞の方が容易に思い出せてしまうわけです。



これを『悪女』の話と比較して語るならば、『ツンデレ』は「ナンダオレノコトスキダッタノカヨコイツ」という、恋心への気づき、ネタバレ、とまどいと歓喜から逆に導き出された幻想だと言えるのではないか、ということになります。そうして、それら『ツンデレ』なるものがいわば「後付で定義される存在に過ぎない」と考えるなら、『悪女』が相手に残すものと『ツンデレ』が相手に残すものは、基本的な方向性として全く異なると言って良いことになります。前者は最終的に破滅を、後者は恋人関係をもたらすわけですから。*5


つまりその点で、長々と書いてきましたが『悪女』と『ツンデレ』は異なるという萌え理論blogさんの意見に私は賛成です。ただしそれは『悪女』と『ツンデレ』が区別可能であるということを意味しない。なぜならそれは対象であるオニャノコの問題ではなく、周囲にいるその観察者の性格によって変化しうるから。このあたり、数々のオタク作品に詳しい萌え理論blogの中の人なら、様々な例を思いついて頂けるのではないでしょうか。


ある女性が『運命の女』であるのか『悪女』であるのか『ツンデレ』であるのか。その点で私がもう一つ思い出すのは、子供の頃読んだシャーロック・ホームズ作品の中に登場する「あの女」ことアイリーン・アドラーさんです。ホームズをしてその才を敬服せしめた彼女は、ホームズにとってある対象者として現出することになる。その彼女をラストで「写真」という二次元に閉じこめてそれを「愛でる」という立場に立ったホームズは、そうすることで本来恋愛関係でも何でもなかったアイリーンを「あの女」という自分にとって特別な存在に仕立て上げてしまう。そして読者である我々にとってもまたアイリーンは、謎めいた魅力的な「あの女」として映し出されることになるのです。もしラストシーンでホームズがボヘミア王に写真をねだるという行為をしなければ、アイリーンの造型はかくも美しくならず物語自体の魅力も半分以下に減じてしまうことでしょう。このホームズの行為は極めて「オタク」的行為と言えます。アイリーンはボヘミア王に取っては単なる危険な『悪女』でしかなかった。しかしホームズは彼女を二次元に閉じこめ、後をつけ自分に挨拶した行為を一種のデレと解釈しなおすことで、アイリーンを『ツンデレ』と脳内変換しおおせたのです。*6つまりここで「アイリーンは悪女かツンデレか」という議論はそもそも成立しないのであって、あくまで彼女をどう受け取ったかという解釈の違いだけが存在すると言うのが適切ではないでしょうか。


女性に対して「ツン→デレ」という属性を見いだしそれを己の幻想に閉じこめて現実を再解釈できることのできる者の存在こそが(それが登場人物であれ作者であれ)、『ツンデレ』をこの世に存在せしめることができるのです。
つまりオタク無くしてツンデレ無し


その意味では、切込さんの

好きだという気持ちを率直に表現できないから男性に厳しく当たる表現が総じてツンですよというのはヲタの文脈で成立してるだけのもんです。

という説明が間違っているとも思わないのですが、私は「そこに見いだされる女性像も演劇の世界では昔からよく知られているものだ」という意見には今ひとつ与しない、なぜなら「それを見いだす男性側の諸条件(端的に言えばオタクという存在やその社会的位置)」は過去と大きく変化していると考えるからです。それこそホームズを例に取っても良い。未婚で下宿に閉じこもって趣味に耽り、眼と頭だけを発達させた存在であるところのホームズは、発表当時は戯画化された近代人の畸形に過ぎなかったと言って良いわけですが、今となっては「古き良き家庭」へと帰って行ったワトソン博士よりもずっと我々に近しい存在であると言えるのではないでしょうか。ことほど左様に時代が変化している中で、『ツンデレ』について述べるのに「それは古い『悪女』的意匠に過ぎないよ」という言い方しなくても、本来切込さんが言いたいことは言えたんじゃなかったかなとも思います。まあ、それは彼の勝手ではありますが。


それにしても、余談とはいえ切込さんから『悪女的な振る舞い』の例として出てくるのが『プリティ・ウーマン可愛い女)』だったというのが、この際非常に象徴的だなあ……と、一人こっそり面白がったりしていたのであります。いや、どうも。


(追記)
ロリコンファルさんから、上記記述の一部についてご意見をいただいたので、こちらに返信しました。(ちっぽけな人間を、それゆえに愛するということ(ロリコンファルさんへの返信)(こころはどこにゆくのか?))そちらから飛んでこられた方は、こちらも併せてご覧いただければ幸いです。

*1:なんという美しい響き!

*2:すごいまとめ方だな我ながら(汗)

*3:これを聞いて絶句する青木先生の表情も実に味わい深い。

*4:……いるとすればそれは、一見そう見えなくても実は世界の全てに対して好意を持っている人だと言えるのではないでしょうか。

*5:逆に言えば、方向異性としては異なっても、事情次第では似たようなものであり得ます。たとえばツンデレ少女が恋する対象に、既に完全に揺るぎない恋人がいる場合など、恋心に気づいた対象者が彼女に感じるものが「迷惑」とかひどい場合には「破滅」であることだって可能性としてはあり得ますので。

*6:アイリーンをホームズの「運命の女」と見なすのは、両者の間に想定される「関係」の実体が実はそもそも存在しない、ということで否定されうるでしょう。