新年早々からの二つの家族内殺人事件

<青森家族殺害>長男、ナイフ8本を所持 死因は首の失血死
「長女にやられた」、徳島で母と長男刺され死亡二女重傷


「心を病んだ人が」「暴力という形で」「身近な家族に対して」起こした事件という点で両者は共通しますが、ホットエントリにあがっていたこの記事「犯罪の九割は失業率で説明がつく(松尾匡のページ)」を読んで真の共通点はそこではないのではないか思わされました。


この記事は、失業不安、失業率が犯罪と有意な関係があるのでは、と推測して統計を取ってみると、最大95%の関連性が見いだせるという話。*1これを読んで、最近読んだE.シューマッハーの言葉を思い出しました。「経済効率」から見れば、社会に一定量の『失業者』がいる方が安定して効率が良い、と近代経済学は教えますが、それは「労働」をただ苦痛なものであり「お金」と交換するだけの「商品」の一つとみなすからそう見えるだけである、と。たとえば仏教は、近代経済学が扱わない部分に存在する労働そのものの価値*2に焦点をあてるが、それを基盤にした「仏教的経済学」のようなものを想定し、まず「100%雇用こそが目指すべき社会の目標である」と位置づけてあらゆる経済政策をくみ上げることも可能なのだ、とシューマッハーは述べます。

スモール イズ ビューティフル (講談社学術文庫)

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少年犯罪、社会不安、と、日本のかつての「安全神話」を揺るがすような出来事が世をにぎわせていますが、シューマッハーの言葉を逆に援用すれば、失業とは、単に労働力という商品の過剰供給と交換価値の下落を意味するだけでなく、社会不安を増大させ人々の社会性や安定度を低下させ市場そのものの基盤を揺るがす問題だということになるでしょう。そして、基盤そのものへのダメージは、そこで取引する人に薄く広く降りかかるだけで取引そのものに対するフィードバックとしては働かないため、「市場」の原理ではそのダメージを軽減する方向に動くことはない。人々が本当に求めている「豊かさ」を、感覚ではなく理論的に手に入れる方法があるなら、我々はそれを真剣に検討してみるべきなのではないでしょうか。

*1:もっとも有意だったのは、その年の失業率と過去4−6年間の失業率の平均の二つを変数にした場合、とのこと。つまり「突発的な犯罪」と「じわじわ追い込まれていくタイプの犯罪」は、いずれも失業を契機とする場合が多いと推定されるということか。

*2:生き甲斐を与え良き人間性を創造するような価値。たとえば職人気質、などもその一つ。労働によって、自分が社会に認め必要とされていると感じることができることは、一面では労働中毒を生み出したりもするだろうが、適切に生み出されれば人々に社会性を生み出す基盤になりうる。