「強さ=正しさ」と考えている人へ

夢うつつに考えていて、ふと思った。自分はやみくもに弱さ=正しさだと考えているフシがある。世の中の人は大抵「強さ=正しさ」だと考えてるみたいだ。しかし、一体どちらのどういう点に正当性がありどこに間違いがあるのだろう。ちょっとした思いつき、言葉遊びに思えた割には意外と面白かったので、書いてみる。


まず「強さ=正しさ」という考えは、たとえば100万部売れた(=強さ)本があるとすると、そこには明らかに「何らかの理由(=正しさ)」があると強く推定される、といった考え方を基に成り立っていると考えられる。強いものは、その強さ、支配力だけをもって自らの正当性を証明できるわけではなく、強さには理由があるはずだという考えによって、周囲からある種の正当性を推定されているということだ。たとえば昔、金持ちのことを「有徳者」と呼んだ。これは、『現世でかくも運にめぐまれ金持ちに生まれたあるいは金持ちになった人は前世で相当な徳を積んだにちがいない』と推定されたからだ。逆に、強弱には確たる根拠など無い、という考え方を受け入れるなら(意味や根拠など無いところに意味や根拠を見いだすのは、人間の本性に関わる一種の錯誤である*1)強さが正しさであるとは限らない、という事実も受け入れ可能であるはずだ。ただし、強さが正しさであるとは限らないにせよ強さこそが「人間の選びうる中でもっともマシなものである」という考え方を否定するのは難しい。民主主義というのはそれを前提としたシステムである。


では「弱さ=正しさ」と自分が考える根拠は何だろう。それは「人間の選びうる中で今のところ最もマシ」に運営されているはずのこの社会に、矛盾や不合理がぎっしりつまっているからだ。外山恒一ではないが、多数派のやることに矛盾と不合理がたっぷりつまっているなら、その社会で整合性・合理性を貫けば少数派にならざるを得ないことは明白だからだ。あるいは、やむにやまれぬ理由で少数派においやられた人々。彼らは、少数派扱いされているというだけでひどい不合理を押しつけられているがゆえに、支持されるべきである。目の前に「応援しなくても大丈夫」な人と「応援しなければ大変」な人がいるとして、他の条件が同じなら誰だって後者に手助けするだろう。だから自分は支持されるべき人を支持するべきだと考える。たとえば弱者救済、格差是正。すなわち社会主義というのはこれを前提としたシステムである。


しかしこういうイデオロギッシュな対立というのはもう流行んないんじゃないか、と最近思い始めている。たとえば「強弱と正当性には何の関連性もない」という立場。まあ、その方がいっそスッキリする。なんでもスッキリすればいいというものではないけれど。だからといって「気持ちよければ良い」とか「面白ければ勝ち」とか「美こそ正義」なんて手垢のついたフレーズもぞっとしない。


強いて言えば、正当性に関しては、まだまだ「知」というものに唯一のベースをおいておきたい。学問の世界以上に「正当性」を語る資格のありそうな場はこの世界には無い。てなことを考えていると、象牙の塔の中にこもりたくなるのかもしれないなあ…。

*1:関係のない所に関係を見いだすのが人間の言語能力の根底にある抽象化能力であり、それは時に間違った連関を生み出しもする。たとえば迷信。