増田に書いた教育系ネタが広がりすぎて困惑している件

増田に書いた教育ネタについて、真面目に書こうとすると話が広がりすぎて増田で書けば迷惑になるレベルに達してきたので、こちらに場所を移すことに。


とりあえず以下返答。
(1)「教育って福祉?サービス業?」
について。*1

「教育には金をかけすぎている」→事実誤認。根拠は既述。
「45人学級の頃は日本の学力水準が世界でも上位水準」→そんな調査も結果も無い。
「他の地域が35人学級で、他の地域と同程度の学力を達成するために大阪は25人学級にしなければならないってのは、それは解決方法としてナンセンスでしょ。」→他の地域は40人で大阪は35人。「クラス定数」と「クラス平均人数」を、橋下と同じく混同してる。/大阪が教師の数を増やしていたのは「増やす理由/必要があったから」であって、その理由が解決されていないのに「試験の点数」という結果だけを問題にして35人学級を批判してどうするの?
「45人学級が35人学級より劣悪だとすれば、その劣悪な環境の方が国際的な教育水準ではより成果を残してきた厳とした事実がある。」→そんな事実は無い。

最後の奴なんかは多分2chの受け売りか何かだと思うが、TIMMSの調査結果なんかを見て言ってるんだと思うけど、じゃあ実際にいつどれくらいだったのと聞いても多分出てこないだろうから、こちらからあげておく。
基調報告:国立教育政策研究所
の6ページ(資料では23ページ)に分かりやすく表になってる。とりあえず「低下した」という傾向は見えないこと(調査対象国が増えている)、そして、何より重要なのは、過去と現在で『学力』が変わっていること(後述)。その意味で単純比較などできないことは知っておくべき。


さらに。
*2
(2)あれ?なんでけんかごしなの?

「こういう手段がありますよって話ならともかく、こういう手段しかないってのは、どうなのよ。」→「かけられる金は減らしたい」のは世界共通で、世界共通に金をかけて解決しようとしてることに金かけようとせずにまず『他の手段』、というのはおかしい。
「要求水準が変わってるってどういうこと?学力の要求水準がむかしの方が低かった、けれども今、高い、なので以前と同じ方法論ではやってられないというならわかるけどね。」→一家族あたりの子どもの数が減った。家庭が多様化した。これは先進国共通の課題。で、保護者は以前よりも子どもに手をかけて多様な育て方をするようになり簡単に言えば『学校にも同じく手厚く多様な手のかけ方を求めるようになった』ということ。だから諸外国は教育にかける予算を増やさなきゃいけないと考え実行している。この間の事情は下の中教審答申でも述べられている。
「今の学生の方が学力は低いから。」→事実誤認。下のデータ参照。
「45人学級の時代のベテランたちでも35人学級で学級崩壊が起きているなら、問題は人数じゃないってことでしょ?ここ、理解がおかしい?」→45人学級時代の「人」が現在の状況に対応出来てないということは教師の「質」は関係なくて現代の要求水準が上がってるということを表わしてる、という話。
「誰も少人数学級が学力向上にプラスになることは否定してないんだから。否定してる?どこに書いている?」→その件について「あなたは否定してる」などと私は主張していない。私は『グダグダ言い訳して教育に予算出さないのはシミッタレだ』と言ってるだけ。その言い訳も、事実誤認やデータに基づかない印象論の上に成り立つはなはだ不安な代物。

いくつか誤認はあるにせよ、少人数教育の意義を理解し賛成していただけるのはもちろん結構。できれば更に、自分が色々全く事実でないことに基づいて「他の案」なるものを示唆しようとしているけれどそれが全く無意味だということにいい加減気づいて欲しい。というか、そもそも私は「『学力』が低下しており向上が必要だ」なんて一言も言ってないはず。それこそ読み返して頂くとありがたいし、あなたが根本的に勘違いしてるのもそこ。私は、先進諸国と同じ問題を抱える日本は一刻も早く教育に適正な予算配分をするべきだ、と言っているだけ。学級崩壊、いじめ自殺、多様性の確保、現場の高齢化と技術の不継承、モンスターペアレンツ現象(親だけの問題ではなく教師側含めた構造的な問題として)、保護者負担教育費の高騰、新しい『学力』観の定着……等、これらの教育問題への対応は遅れれば遅れるほどクリティカルなものになり得ます。それらに対する最も本質的で重要な手だてが、何を置いてもまず「教育への適正な予算配分の実施」であり少人数教育であるという話。
大体「学力」なんて未定義で曖昧な概念、私は相当否定的な文脈でしか、またカッコ付きでしか怖くて使用できません。それを、あたかも「学力」なるものに実態があるかのように考え、しかもペーパーで調査できる「点数」すら上がっているというデータも前にしながら、なお「学力低下」を唱え続け、しかも出すべき金だけ惜しむ、というのはどういう心性なのか?というのが、昨今の議論の本当にうんざりする点なんですよ。
とにかく視野を広く、そして事実をもとに議論しましょうよ、と。


◎(参考)「学力」の推移に関する文科省の調査結果について

過去の調査と同一問題の正答率を見ると、多くの問題で大きな変化が見られないか、高くなっている。(過去とは昭和37,39年度に行われた全国学力テスト含む)
過去同一問題に比べて有意に低下したと言えるもの :
小学校0問、中学校1問
過去同一問題に比べて有意に高くなったと言えるもの:
小学校9問、中学校8問
「平成20年度全国学力・学習状況調査調査結果のポイント」
http://www.nier.go.jp/08chousakekka/01chousakekka_point.pdf

こういうテストで計れるものを『学力』と呼ぶとすると、少なくとも『学力』は向上していることになる。ちなみに調査の結果は19年度20年度でそれほど変わらなかった。結果、全国学力テストとかはもういらないんじゃ?というのが現在出始めている声。


あと、以下はサービスなのでまずは落ち着いて読んで欲しい。「ガクリョク!ガクリョク!」叫ぶ前に必ず知っておきたいこと。
◎(参考2)「新しい『学力』観」について
新しい『学力』観とは、日本では1991年に(旧)中央教育審議会第29回答申(下にリンク)で提起され、現在に至るまでの『学力』観や文科省方針の基礎となっているもの。背景をたどれば、世界的に産業界からの要請が変化しつつあり、従来のような「組織内で機能するメンバー」でなく「流動するシステム内で自立できるメンバー」を育てる教育が求められはじめたことに由来する。ここから、従来のような知識の量だけでなく、自ら考え・学ぶことのできる能力を新たに『学力』と考えることになった。すなわち、言葉の正しい意味での「ゆとり教育」が目指した物。現在OECDの行っている国際学力調査が言う『学力』もこの後者の定義に基づくもので、昨年来日したOECD事務総長アンヘル・グリアは講演の中で日本の「古い学力観」に言及し

生徒がたんに科学的知識を記憶し、その知識とスキルを再現することを学習しているのだとすれば、多くの国の労働力市場からすでに消えつつある種類の仕事に適した人材の育成を主に行っているというリスクを冒していることになる。

と問題点を指摘している。すでに17年前に「新しい学力観」を打ち出した日本が、今さらそんなことを指摘されなくてはならないのはなぜなのか。一体何が教育界の改革を阻んでいるのか。
たとえばhttp://slashdot.jp/comments.pl?sid=382275の1258968さんなんかはその間の事情を非常によく理解していると思う。


参考:中教審第29回答申('91)「新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について」

今後は,社会そのものが欧米の近代社会へ「追い付け追い越せ」の近代化とは異なる目標へ向かって質的転換を遂げつつあるのに合わせ,学校教育もまた,今までより以上にきめの細かな,コストも時間もかけた,丁寧な対応を求められてきている。それは教育を受ける側の選択の自由への期待が広がっていることにも関係している。子どもたちは画一性を嫌い,多元的な価値を求め始め,個性的な学校に憧(あこが)れるようにもなりつつある。それが時代のいわば趨(すう)勢である。
今後の高等学校の在り方を考えるに当たっては,次の視点を重視していくことが必要であろう。
ア 量的拡大から質的充実へ
イ 形式的平等から実質的平等へ
ウ 偏差値偏重から個性尊重・人間性重視へ

*1:とりあえず『塾はサービス業で教育は福祉』でしょう。

*2:なんで喧嘩腰、というか、同じような話がたくさんあって、しかもそのほとんどが少し調べれば分かる誤解を放置してるものだから、いちいち説明することにウンザリしているだけで別に怒っては無いですよ。