体罰論…というか、どう見ても皮肉

体罰は教育でしょうか?
少なくとも、現在の法律下では完全に否定されている*1にも関わらず、歴然と現場には風潮として残されているのが「体罰」や体罰信仰です。だからこそ、引用先に引用されてるような信仰告白ブログ(「体罰の会」!)が登場したり、下の引用先(「女教師ブログ」"体罰は教育ですか?−オフコース、イエス!")のようにそれを皮肉ったエントリがいつまでも書かれることになるわけですね。

もちろん体罰には、すぐれた教育効果が存在する。殴られるのが怖ければ、必死で頑張る子どもがいるのだから。殴打の恐怖におびえながら百マス計算をものすごい速さでこなしていく子どもたち。なんてシュール。
ただし、最悪の事態(つまり事故)が起こってしまったら何の意味もない。そこで教育可能性は終わってしてしまうからだ。だから体罰をするときには「最悪の事態を回避するシステム」が必要となる。
そのシステムは、例えば、第三者が監視するとか、監視カメラを設置するとか、教室をガラス張りにするとか、いろいろな案が考えられる。しかし、コストが抑えられて、しかも「子どもの主体性」が養われるもっとも良い方法がある。
私は、子どもに自衛のための暴力を認めることを提案したい。
(「女教師ブログ」http://d.hatena.ne.jp/terracao/20090916/1253036450

引用一行目の「教育」には、カギ括弧がつけられた方が良い、と思います。けれど、言いたいこと自体は分かる気がします。ちょっと自分なりに言い換えてみますね。



つまり、体罰という現象において、殴る側は自分が殴られることを一切考慮していないですよね、ということを、女教師さんは脇から指摘したかったのだと思います。そこにはある非対称性がありますよね、という。そこを、このエントリは皮肉っているわけですね。というのは、体罰肯定論者の多くは、「反撃されること」を前提としていないから。
彼ら彼女らが、もし本当に(心の底から)「有形力の行使には教育的な力があります」と主張したいのならば、その人々はまず己自身にこそその「教育的暴力を振るわれたい」と主張しなければおかしいですよね。まあ、ご自分は立派な大人で、悔い改めることなど何一つなくて無誤謬で、そして他者から感化や示唆を与えられる可能性など皆無だ、とでも主張したいというならともかく。そういう人が、たとえば約束の時間に遅れた、子供との約束を破った、忘れ物をした…そういった時に「私を殴れ!そうでなくてはお前と抱き合う資格など私にはないのだ!」…って、まるでメロスのように叫ぶとすれば、一応そこには理屈が通っていなくはないのですが、まああまりそういう人を見たことがない。
とするならば、論理的に考えてそこには二つの可能性しかない。一つは彼らが「本当は体罰に教育効果なんてない」と考えている可能性。(それは、おそらくレアケースとしてのみ存在するでしょう。)そしてもう一つ…おそらく事象の大半を占めると思われるのは、彼らが半ば無意識に、そして半ば本気で、「私の体罰は良い体罰」と信じている、という可能性です。曰く、「大人が子供に対して行う場合体罰は有効」、曰く、「そこに心の絆があれば、体罰は愛の鞭となる」、曰く、「程度を知り、加減を知って、躾として行っているから、暴力ではない」…etc。
女教師ブログさんの皮肉が標的としているのは、まさにこの一派の人々なのだと思います。まさか言葉どおり、本気で「殴る教師vs武装生徒の仁義なき戦い」がベストだなんて思ってるわけないと思うのですが、どうもコメント欄とか見てるとその思いが揺らぎそうになるので、一応書いておきます。女教師さんが本当に問題にしたいのは、体罰肯定派の、その恐ろしい勘違いなのではないでしょうか。*2



これを踏まえて、体罰についての私見を少し書き留めておきたいと思います。お暇な方のみ続きをどうぞ。



………
……
本当に暇なんですね?



じゃあ書きます。
女教師さんは「ある種の人々にとっては大変残念なことかもしれないが、体罰やしごきと、ふつうの『教育』なるものは連続している。」…と書いておられますが、私は「ある種の人々にとっては大変残念なことかもしれないが、『教育』の本質と『暴力』の本質は相容れないものであり、そして『体罰』は『暴力』とのみ連続している」と考えます。
体罰という言葉が意味するものは、条件反射による動機付けであり、それは、事態の振り返り・ルールの内面化・道徳的反省、といった『教育』とは一切関係がありません。たとえば、昔読んだ『チョコレート中毒者の治療』なるもの……「口いっぱいにチョコレートを頬張らせ、チョコレートを食べている映像を見せながら、飲み込もうとしかけると微細な電流が流れ、最後にすべてのチョコレートをバケツに吐き出させる」といった方法……それはなるほど彼の行動傾向を変えはするでしょうが(心のそこからチョコレートが嫌いになる、といった形で)、このおぞましい治療を「教育」及びその「効果」と呼ぶのは正当でしょうか? 殴ったら、殴られた物が物理的に変形した……それを「教育」というなら、粘土でも立木でも空き缶でも、あるいは夜の校舎で窓ガラスを「教育」してまわったりすることもできそうですが、そういうものを普通「教育」とかその「効果」と言ったりはしません。



しかし、一方で、音楽を楽しみ人生を楽しむ両親に育てられた子どもが、自然と、人生を愛し音楽を楽しむ子どもに育ったとすれば、それは言葉の正しい意味での「教育」というべきでしょう。信頼、共感、尊敬、憧憬、人が人に自然と惹きつけられる気持ち、何者かになりたいと強く願うこと、努力すること、達成する喜び、動機の内面化、持続……etc。支配と隷属でなく、憧れと共感、信頼と協力によってのみ、人は自分一人では届かなかった高みに到達することができます。現実の教育が、常にそれら一切のものを含んでいるとは言いませんが、そこをベースにしていない教育は、教育に名を借りた洗脳、あるいは暴力に過ぎないと私は思います。



子どもの時の「体罰」体験を、美化して語る大人は沢山います。それらを嘘だとは言いませんが、私はそのほとんど全ては「体罰以外の部分による教育の成果である」として説明がつくと思います。曰く「○○先生は、やたらと生徒を殴ったけど、その分真剣に自分たちと向き合ってくれた」、曰く「○○先生に殴られた時、先生の目にも涙が浮かんでいた。それで自分はハッと目が覚めた」、曰く「悪いことを他の適当な大人の様に言葉でぐちゃぐちゃごまかすのでなく、バシっと殴って注意してくれたことが、自分の心に沁みた」……etc。私は確信を持って言いますが、これらの先生はたぶん殴らなくてもそもそも良い先生なのであって、殴ったから良い先生なわけではない、と思います。
簡単に思考実験をしてみましょう。あなたが学生時代に一番嫌いだった先生を思い浮かべてみてください。別にその人が体罰教師であってもなくても構いません。そして、自分が何かして、その先生に自分が体罰を振るわれた、という情景を想像してください。さて、そのことであなたには、その先生への信頼感が湧いたりしますか?その先生のことが好きになったり、この人の言うことは大切だという思いが湧くとか、そういうことが、本当に想像出来ますか?
その上で、再度考えてください。体罰そのものに教育効果があるという考えについて、あなたはどう考えますか?



良い先生が振るうのは良い体罰で、悪い先生が振るえば悪い体罰ですか?



私は、体罰を振るうけれども生徒に信頼されている『良い先生』のほとんどは、実は体罰など振るわなくても十分生徒に信頼される『良い先生』なのだろうと思います。逆に、何かが足りない『少し駄目な先生』が、体罰を振るったところで魔法のように良い教育力を発揮したり、生徒が見違える様に言うことを聞いたり…なんていうことも無いと思います(それどころか、生徒が表面上言うことを聞くせいで向上心を失ってどんどん本物の『ダメ教師』になってゆき、ますます生徒の信頼を失っていくケースの方が多いのではないかと思います)。



私が教育現場で唯一許されると考えている「有形力の行使」は、「それ以上の物理的な暴力から子どもを守る緊急の必要性がある場合」くらいです。*3まして、「罰」として有形力の行使を用いる、なんてことをすべての教師に許容すべし、などという暴論には、おそろしくてまったく賛成できません。いくら基本的には人間を信じてる私でも、そこまで教師一般を信じられるほど脳天気なお人好しにはなれそうもありません。



体罰それ自体の「教育効果」は、たぶんゼロどころかマイナスだと思います。まあ、マイナスどころか絶対零度みたいな教育しかできない教師が、体罰をすることでどうにかドライアイスくらいの教師をしている……というケースも、一応想像できなくはないですが(その場合、そもそもそんな人間の採用に関わった人間が、速やかにその責を負うべきだと考えますが)、普通の場合、体罰は百害のみあって一利もない、体罰によってできることで体罰以外の手段で達成できないことはなく、体罰によることで失われるものは遥かに大きい、体罰を明白に禁止している現行の法律は、まったく正しい、と考えています。
(以上)




追伸
ちなみに、先にお詫びを申し上げておきますが、最近諸事情により余りネットにアクセスする時間が取れません。ご意見には可能な限り速やかにお返事したいとは思っていますが、思いがけず時間がかかっても怒らないでください。



追伸2
ブクマコメントにお返事。
「では電車で騒ぎまくる幼児を暴力抜きでおとなしくさせる方法を教えてください。」
そういう状態にならないように普段からきちんとコミュニケートしルールを共有するというのが教育なのであって、気分次第で殴ったり甘やかしたりしてさんざん手の施しようもないほどひどい状態にしてから「さあ躾けろ」と開き直る態度というのはいかがなものかと思いますよ。



と返すのもあんまりなので、答を一つ。
連れて電車降りたらどうですか?
で、好きなだけ騒がせたあとで、コミュニケートが取れる状態になってからゆっくり話す、と。
「そんなことしてる暇ねえ」とか「忙しい」とか言うのは単なる大人の側の都合なわけで、そうやって自分の都合だけ押しつけるんだったら、結局やってることは子どもと同じということにならないですか?

*1:「学校教育法」第11条:校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

*2:まあ、こんな風に解説されてしまうのはむしろ不本意であるかもしれないし、そこは申し訳ないと思いはするのですが。

*3:まあ、たとえば窓枠に乗って遊んでる子どもがいたら、強引に手を引っ張って引きずり下ろしても可、というレベル。