「一発でつかんで、かつ届く」について

先日の記事で「中間層にヒットする、『一発でつかんで、かつ届く』」話を書いた。
昨日やはり小さな説明会があり、週明けに大きなのがもう一つあるので、覚え書きにかえて、少し続きを書こうと思う。
ちなみに、こうやって常体で書いてる記事はおおむね自分用の整理メモなので、たまたま訪れた人はそういう感じで、適当に読み流したりしていただけると嬉しい。
学校時代の校長先生とかは、やたらと朝礼とかで「3つの○○」というのを強調してたけど、個人的には「そんなにいくつも(毎週とか毎学期とか)3つの○○があったら大変、つか3つじゃねーじゃねーか」と覚めた感じで見ていた。まあ、「今日自分が話したいことには3つポイントがあって〜」ということを言いたかったのだと思うが、たいていはそういう矮小化した話ではなくて、あたかも「人生の肝心はこの3点に尽きる!」みたいな異様なテンションで語られたりするので、胡散臭さが否めないのであった。
まあ、自分がそういう胡散臭いレクチャーをする側になってみれば、話をまとめる意味で3つにしたがった気持ちはそれなりに分かるのだけれど、それでもやっぱり毎回「3つの〜」とやられると、聞いてる側もうんざりだと思う。
最近自分が考えているのは、「3つの〜」もいいんだけれど、そこに「ストーリー」を作るということ。簡単な構成意識と言ってもいい。いくつかレクチャーをしてみて、こっちの方が、聞いてる側の食いつきの真剣味とか、質疑の熱心さとか、理解度がいくらか良いような気がする。一定成り立った因果の連鎖がそこにないと、自分の理解がまず成立しないし、従って説明にも力が入らない。
言い換えればこれは、自分なりの「世界をどう把握するかのメソッド」ということ。因果の連鎖が無限であることはそれとして理解しつつも、そこに「意味」をあらしめるためには(あるいは「物語」を生成するためには、というべきか)因果の連鎖を一定範囲内で、かつ現実との齟齬が可能な限り小さくなるような切断が必要である、ということ。


それは、たとえば、似顔絵を描く際に必要なこと。人の顔を「映像」として捉えるのでなく、「物語」として捉えて、必要な情報を切り落としたりときには拡大したりして、ときには「実際の映像よりも実物らしい」ような記号を作り上げる作業。
あるいは、映画製作。ある「世界」の断片を、2時間半に集約し、編集して、そこに「物語」や「感動」を現出する行為。
あるいは、俳句。世界や人生の真実を、十七音に凝縮し再現する行為。


凝縮された断片が、同時に世界そのものであるような構造*1を作り出すための一つのキーは、「謎(ミステリー)」かもしれない。謎は、物語を紡ぎ出すエンジンだから。自分のキーワード→物語化には、まだ「謎」が足りない。来週の説明会では、その辺りをちょっと意識してみたい。

*1:フラクタル構造?