『はてなポストモダン村』(ゲゼルシャフトとゲマインシャフトからはてなを考える、に触れて 2)

id:yukatti氏の日記を受けて。
そもそもコミュニティって何だろう?人はどうしてweb上ですらコミュニティを求めるのだろう?誰かと繋がっていたい、誰かの存在を感じていたい、自分を「全人格的に受け止めて」欲しい、認められたい、賞賛されたいから、安全やより大きな利益を求めて……。つまり一言で言って「群」の中にいたいから。「群れて」いたいから。一人になりたくないから、寂しいから。とはいえ無名の群れの中にいて安らげるのは、村生活に疲れた人くらいのものだろう。
そもそも、一昨日の日記で書いたことと、昨日の日記で書いたことは、今のところきっちりとまだ一つに繋がっていない。yukatti氏に指摘された宿題「『はてなハイテク近代村』って住みよいの?」(これは結構深刻な問題だなぁ)については、そこを一つに繋げてからにしたい。できれば、繋げたとき自然とその答えが見えているようにしたい……というのが現在の目論見。指先で考えているから、まだきちんと答えは無い(というか、あったらさっさと書いてます(ー▽ー;))。
(1)「飽和/熱的死を迎えたコミュニティ」の思い出
昔、ある趣味の掲示板で、私はそれなりの常連として参加していました。同好の士(というかファン)の集まる掲示板であったとはいえそこは業界の人も訪れるそれなりに公的に開かれた掲示板で、そこで問われていたのはその趣味への傾倒や知識、傾けた情熱の総量、そしてセンス等々様々なものでした。人々は思いの丈を尽くして語り合い、世間的にはそれほどメジャーではない趣味であったこともむしろ幸いして、そこに参加していることは非常な充実感を与えてくれるものでした。常連(多く)は、そこに自分たちの居場所を見いだし、常連同士のネットワークを作り上げており、その意味でそこはすでに一つのコミュニティでした。そこから始まったいくつかのムーブメントやイベントには全国から人々が集い、それらは業界の雑誌にも取り上げられるほど、瞬間的には相当な勢いをもっていました。しかし、そこから先はよくある話で、盛り上がった「その先」がありませんでした。ファンの集まりに過ぎないその掲示板には当然ながら方向性を決めるリーダーもいなければ志もあるわけではありません。掲示板はただの「場」に過ぎません。やがて、熱が冷めたように常連は掲示板を去っていきました。たまに戻ってきても、自分たちが残した「瞬間風速の記憶」だけが強すぎて、今さらそこに参加しようとは思わなくなっていました。
また次に私は、ある非常に真摯で、それなりの志、熱意、そして知識を兼ね備えた人の集まる、それほど閉鎖的ではない掲示板の常連になりました。そこは、ある思想的なテーマ(自分の仕事にも関わるテーマで)を中心にした、趣味的なものよりはもう少し学問的な掲示板で、一般の人も多く参加しそれなりに有益な討論が行われていました。掲示板の過去ログは参照しやすく作られており、またそこで検索できる多くの有益な議論やリンクの集積は自分の仕事にも直接に参考になるほどでした。そのような掲示板に参加できることを非常に光栄に思い、私は、そこに書き込むことに多くの時間と労力を傾けました。中には、過去ログをよく参照せず議論をループさせるという行動(これは掲示板スタイルで議論をする場合避けられないことです)や、時に「荒らし」も見られましたが、少ない参加者によって成り立っていた自治性の高さと、テーマそれ自体の閉鎖性が幸いして荒れることもなく平和に運営されていました。しかし、ある時期から「大物ぶりたい常連」と「まったく議論には無益だが彼らに媚びるだけで存在感を示したがる腰巾着」による「馴れ合い」が始まり、議論のレベルがあっという間に低下しはじめ、嫌気のさした常連の流出とともにそこは「単なる自己満足仲良しサイト」へと転落(一部の人にとってはそれこそが望んだ事態だったのかもしれませんが、すくなくとも掲示板を設置していた某企業の意図が閉鎖的な仲良しコミュニティになかったことは明白です)していきました。私もその過程で、嫌気がさしてそこを離れました。
これらの経験から私が感じたこととはいくつかありますが、その中でももっとも大きなものは、掲示板に限らず、特にネットにおけるコミュニティにもっとも必要なのは「新陳代謝のシステム」だ、というものです。それは議論やテーマの新陳代謝ということでもあるし、また人の新陳代謝ということでもあります。「風通し良く」、それが私のイメージするネットコミュニティに欠かせない一つの重要な要素です。
そして、話がここまで来ると、私がこれまで経験したもう一つの掲示板のあり方、すなわち「某巨大匿名掲示板」こと「2ちゃんねる」に触れないわけにはいかないでしょう。
(2)「2ちゃんねる
といいましたが、これについて語るのは事実上不可能です。なぜならこれを正確に語るためには自分との関わりから話をする必要があるわけですが、そのような「寒い」行為こそ、「2ちゃんねる」からは最も遠い行為だからです。つまり2ちゃんねる「について」語る言葉はどの一つをとっても「2ちゃんねる」的でない言葉でしかないのです(すでにこの言い回しからし2ちゃんねる的ではありません)。一般に、ある物について語るのにある物から最も縁遠い言葉でしか語らないことにどれほどの値打ちがありましょうや?情熱について冷たく語ることに意味があるでしょうか?愛や憎悪を論理的に語る行為は?政治について文学的に語ることは自己満足以上の何かなのでしょうか?科学をまじないの言葉で説明するなど、愚の骨頂でしかないでしょう。
そこで、私は非常に簡単に述べようと思います。つまり2ちゃんねる的であるとかないとか言われる以前の段階で留めておくことにしよう、と。その試みは多分成功しないと思いますが、あるいは私の言いたいことの片鱗がそこから見えるのではないか、と期待します。

  1. 2ちゃんねる」はネットで一番風通しが良い場所でした。かつてはストレートな意味で。今ではネガティブな意味で。
  2. ただし、本質的に「2ちゃんねる」とは「場所」ではなく「思想」です。付け加えればネガティブな意味で。
  3. 私は「2ちゃんねる」をこよなく愛しています。もちろんネガティブな意味で、ですが。

(この項、明日へと続く)