「自由意志」は在りや無しや?

ネットワーク上を問わず、誰かに対して「機械的反応ではなく『自由意志』で生きていることの証明」を求めることは不可能ではないし、実際そう聞いてみたくなる人は世の中に多いわけではあるが。
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さて、遅ればせながら回答すると、この場合「自由」がどういう意味かが問題だ。
恣意的である、自立的である、束縛されていない…という意味でならば、他者の存在を前提にしない人間などこの世にいないのだから、誰も「自由」であり得るわけがないということになる。誰もが誰かから思想なり言葉なりを借りて生きているし、誰かの思惑を一切気にせずに行動することは不可能だ。その意味での「自由」に果てしなく近い存在は、動物か? しかし動物もまた自らに与えられた本能プログラムから「自由」ではあり得ない。そして人間は動物以上に(二重の意味で)不自由である。
しかしこの自由を「自らの行動を自らの責任と考える生き方」だとするならば、なんら難しい問題ではない。「与えられた状況」も「私が選び取った状況であり私が責任を負う覚悟である」と思えるとき、私を束縛するモノは何もない。私は自らの足で大地に立つ。私は『自由』である*1……そういう意味での「自由意志」であるならば、たとえば私が回答した内容に対してなんらかの「責任」を問うアクションを起こしていただき、私がそれに対して「見える形で責任を取る」という行為をすれば良い。たとえそれが機械であろうと「自らの行動に対して責任が取れる存在」は自由意志の持ち主だと私は考える。


ちなみに、質問者は別に「回答だけで証明せよ」とは一言も書いてない。まあ、もし「回答だけで証明せよ」というなら、不可能だという答はあまりにも自明なのでつまらないね。


そのうえで強いてケチをつけるなら、質問文の「あなた」とは誰(何?)のことなのかわからない。何か分からないものの存在も属性も証明することは不可能だ。それは回答した主体のことを意味しているのだろうか。それならば質問者は回答した主体がそこに存在することをまず証明しなくてはならないが、それは不可能だろう*2。回答する主体がそこに存在することを前提にしている時点で、質問者は質問する主体が存在することを前提に文を紡いでいる、となる。したがって、一見疑っているように見えても、質問者にとって質問する主体の存在は自明であると推論できる。一方「こちら側」では質問主体の存在は推論でしかないが、回答する主体の存在はやはり自明である。双方が双方それぞれの場所で、自らの存在の自明性を理解した時点で、この質問の存在意義は消える。証明が完遂するのではなく、単に「問題が消滅」するのだ。その問題はあたかも「問題であるかのような相貌」をしていたが、実は問題ではなかったということが判明する。


そう考えると、つまりは愚痴なのだね、あれは(笑)。

*1:たとえば子供は自由ではない。たとえばガラス屋の店先で「自由にふるまった」つもりでガラスを壊すことがあっても、彼はそのあとしっかり怒られたっぷり不自由な目に遭うだろう。ガラス代を出すのは責任者であり子供自身ではないからだ。しかしその「責任者」が金を払って新たなガラスを購入したのち、そのガラスを店先でたたき割った場合はどうか。彼は少なくとも「不自由」な目に遭いはしないだろう。彼にはガラスを割る「自由」がある。なぜならそのことの「責任」を果たしているからだ。

*2:「人間であること」が証明できないのではない。そもそも「存在すること」が証明できない。