それはどう考えてもバカにされてるだろう

「海猿」NYで爆笑

 鑑賞中、あきらかに日本人と反応が違っていたのは、主役の伊藤が携帯電話を使ってプロポーズする感傷的なシーンでは日本中が大号泣だったが、ニューヨーカーの目には「こんな状況下で携帯を4、5分も使いプロポーズまでする」彼を見て、爆笑していたことだ。

 今回の上映では特別に、アメリ海上保安庁のニューヨークのクルーも参加し、試写後にクルーのキャプテンーロバート・オブライアン氏に、羽住監督が上保安庁の晴れ着を着た猿のぬいぐるみをプレゼントされた。感動のポイントは違うとはいえ『海猿』はハリウッドでも一定の評価を得、リメイクの話題も出てきている。

まあ、文化の違いというのはあるから、細かいニュアンスは伝わらないことはあるかもしれないね。しかし、最初から異文化への理解がきちんと作り手側にあればこういう誤解は生まなくて済むのではないか?
「いかにも『さぁ、ハンカチを出して、ココ泣いて下さい、泣くトコですよ!』的なお約束」が通用しない観客が、そこでは最初から排除されていたんだろうと思う。自分たちの文化を理解しない客を、最初から想定していないという失敗。しかし映画ってそんな蛸壺のような、狭い、不自由なシロモノだったのか? 30分で、流す端から消えていく、リアルタイム命のTVドラマじゃないんだからさ。
蛸壺でしか深められない文化というものももちろんあるし、そういう文化に価値がないとは言わない。貴族主義をまるで無視するのは間違った発想だ。しかし「海猿」は「そういう文化」ではないし、そもそもエンタメとして作られているはずだ。である以上、作り手にもう少し「お約束でなく泣かせるための努力」は必要だったのではないか。それは努力というより才能というべきなのかもしれないけど。
要するに、エンタメとして余りにお粗末な作りだったので爆笑されただけであって、ハッキリ言ってそれはバカにされてるだろう。リメイクの話題?それだって「良い脚本なのに、最低な演出で気の毒だなぁ。いっちょ作り直してみては?」ってことだったりして。「感動して泣いた」多くのニホンジンの涙に偽りはないと思うが、残念ながらそれは世界に通じる「感動」ではなかった、ということ。それを「一定の評価」なんてまるでお役所言葉みたいな玉虫色の説明をするという発想がもうダメダメなんではないだろうか。ここは、いさぎよく「日本の名作、NYは駄作と評価」と書くべきだった。


叩くときは叩くべきである。叩くことに意味があるときには。相手が敵と見れば理屈も分からずに(無視して)叩くくせに、相手が仲間と見ればかばう、というような体質は明らかにおかしい。おかしいことがおかしいと言えない社会は明らかにおかしい。