「炎上」をめぐる断章

小林秀雄が戦後すぐ、雑誌「近代文学*1の座談会に招かれた時、「政治家という人間のタイプ」について、次のようなことを喋っています。

僕は政治が嫌いです。政治家にはなれない。これは大事なことだと思います。政治家という一種の人間のタイプがあるのだ。政治の形式がどう変わろうが、政治家という人間のタイプは変わりはしない。僕はそう信じています。だから、そういう人間のタイプが変わらぬ以上、どんな政治形式が現れようと、そんな形式なぞに驚かぬ。面白くもない。この人間のタイプは昔から何一つ創り出したことはない。美しい詩も深い思想も、有用の道具もそういうものを創り出すに必要な長い観察も、工夫も、労働も、彼は知らない。不思議な人間のタイプです。常に管理したり、支配したりしている。(「コメディ・リテレール〜座談会」引用は、H13.4「新潮」増刊「小林秀雄生誕百年記念号」より

「政治家」という言葉を聞いたり書いたりする度に、また実際に「政治家」という人種を見る度に、私の頭の中にはこのフレーズがよみがえります。「何も創造しない……そして管理したり支配したりすることで飯を食う人間のタイプ」「正しいか正しくないかという基準ではなく、単に敵か味方かということにしか関心が無い人間のタイプ」。そういう人間が集まるとどうなるのか?「味方」だと信じる人間の尻馬に乗って果てしない暴走劇を繰り広げることでしょう。その場その場の状況性の論理や、敵味方の論理だけで動いている彼らには、自らの行為に対する反省も自己批判もあり得ません。

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改めて思ったことは、先日のエントリで述べたイマドキの炎上現象というのは、つまり批評の過剰な政治性なのだということです。自分個人は上のような言葉が頭を巡るほど「政治的な」言辞から身を避けて生きていたので、どうしてあのような粗雑な言葉が平気で流通し、あのようなバカ騒ぎが起きるのか疑問に思っていたのですが、ようやく理解できた気がします。彼らはただ過剰に「政治的」に過ぎる人々なのであり、一人一人が小さな「政治」を振りかざして伸し歩いている……。oresama2chさんが「尊大な消費者」と彼らを呼んだのはやはり正しかったようです。彼らは何一つ生み出さない。ただ管理したり支配したり、そして「消費」したりするだけが自分の仕事のような顔をして生きている……。

そして、かように理解した以上は、今後なるべく彼らと関わらず、そこから身を避けることを考えていくことにしようかなと思っています。私も無限に時間を持っているワケではないので…。

*1:平野謙や、のちに「戦争責任の追及」を派手にぶちかました小田切英雄、「死霊」の埴谷雄高荒正人本多秋五佐々木基一など錚々たるメンバーで若手による新しい戦後文学批評の牙城となり、特に戦前の中堅〜ベテランの文学者に対してキビシイ批評を行った集団