人はそれを悪魔の城と呼んだ。〜某大盛かき氷の記録

京都四条河原町に"悪魔の城"*1と異名を取るかき氷を出す店がある、と人づてに聞いた。それが商売として成立している以上難攻不落…とまでは言うまい。しかし攻める者に地獄の風景を見せずにはおかぬ魔物……それが"悪魔の城"こと永楽屋の宇治氷(夏季限定 700円)なのである、と。
私はかき氷が好きだ。かき氷が好きだ。かき氷が大好きだ。エアコンよりも扇風機を愛し、夏は暑く蒸すほどよい、なぜならかき氷が旨くなるからだ、と思っているくらいかき氷が好きだ。この地上の甘味屋、喫茶店、氷屋、たこ焼き屋、全てで売られるかき氷が好きだ。みぞれが好きだ、イチゴが好きだ、レモン氷なども身の毛がよだつほど好きだ。アイスクリームが上に乗っている様など心が躍る。あずきが好きだ、白玉が好きだ、きなこも好きだ。わらび餅や寒天がトッピングされている光景など胸がすくような気持ちだった。無口な店主が昔ながらの氷を古くさい、デカいかき氷機でガリガリかいている様は最高だ。おしゃべりな連中がそんなかき氷を蔑ろにして、どろどろに溶かしてしまう様は屈辱の極みだ。諸君!私は天使のような舌触りの、暑い夏を一拭きで消し去ってしまうほどの、鮮烈に舌を突くような甘美なみつの、そしてどこまでもジャンクな食べ物としてのかき氷を望んでいる。*2
…そういうわけで、かようなかき氷があると聞けば食せずにはおれまい。私は意を決して…というよりもあくまで散歩に行くような気軽な態度でその店に赴いたのであった。
店についたのは、午後3時を少し過ぎた頃であった。平素ならばまだ早い夏の酷暑が容赦ないその日射しで哀れな民の頭をジリジリと灼きつつある刻限ではあったが、あいにくの曇りがちな天気の下で、京阪四条河原町から歩いてきた程度のことではさ程の汗も感じぬ気候であった。思えばそれが第一の罠であった。
店についてみると細長いつくりにがらんとしたテーブルが並んでいた。落ち着いてかき氷に集中するために奥を選ぶと、そこは身の丈一丈ほどはありそうな旧式の業務用空調機の隣であった。それは決して「サーモスタット」とか「省エネ」などという言葉を知らぬ冷酷な鉄の塊であった。これは第二の罠である。我々(私と相方)はおもむろに腰を下ろし、努めて冷静なフリをしてメニューを眺めた。
メニューは夏季限定メニューとしてたった二つのメニューだけを我々に提示していた。「冷やし白玉ぜんざい」と「宇治氷」のみである。ぜんざいは氷も無く身体が冷えそうにもないし、そもそもかき氷ではない。そしてこの店で「かき氷」と呼ばれるのはこの「宇治氷」のみであった。その完成された形からは何かを足したり引いたりという融通が一切効かないらしい、と聞いていた。*3そしてそのメニューの写真はまさに悪魔の名にふさわしいものであった。


…しばしたじろいだ。
ほんとにデカい。


さっき飲んだ水分を胃に感じる。夏の最中とはいえいささかうかつであった。しかしここまで来て引き返すわけにはいかない。かき氷を食いにわざわざココまで来て、ここで冷やし白玉ぜんざいを頼みなおすような真似ができるだろうか?否。決して、否。
……さて、ここからはかき氷という食べ物に関する蘊蓄が始まる。興味の無い方は適当にとばされたい。そもそも蘊蓄というのは語る側にとって楽しい割に語られる側に取っては大抵迷惑この上ない自分の子どもの自慢話のようなものだ。しかし、その蘊蓄無くしては私がこのかき氷と如何に闘ったかということを説明することは不可能である。そういうわけで、やむを得ずこれについて語ることにする。
元来、かき氷という食べ物は速度を旨とする。店の主人がもっとも心を砕く(あるいは砕くべき)なのは、その氷が如何に口当たり良く客の口内に消えていくか(溶ける、ではない)であって、そのために主人は重量ありかつ切れ味の良い刃を持つかき氷機を選択することはもちろん、氷の種類や温度(氷も冷え切りすぎてはいけないし、かといって0度に近づき過ぎてもいけない)に気を遣わなくてはならない。それでこそ客はスプーンにすくって口に入れた瞬間に口内で儚く消えてゆく天使の舌触りを味わうことができるのである。大体において料理というものは客の手元に届いた瞬間に最上の状態になっているものなのであって、従っておしゃべりに夢中になって鮨屋の親父に包丁を振り回される馬鹿な客のようにならぬよう、かき氷を食す際にもこれがずくずくの液状になる前に速やかに食すべきなのである。とけた液体をすすっているようでは、一人前のかき氷食いとなるにはほど遠いと知らねばならない。
また、幼児ならばいざ知らず、氷をぼろぼろとこぼしながら食うのは一人前のかき氷食い以前に大人としてやるべきことではない。元が水である限り、店主は最大限のサービスとして、氷を器にふわふわにかつ一杯に盛りつけて食わせることに心を尽くしているのであり、客はその意を汲んで、「いや、まだまだ」と言ってみせるためにも、大げさに言えば一滴たりとも氷を卓上にこぼしてはならぬのである。これを避けるために大盛りの氷をボウルに盛って出す言語道断な店が近所にあるが、店主のこういう姿勢は必ずや客に伝染し、そこに蔓延(はびこ)る弛緩しきった雰囲気は店の堕落とは何かを絵に描いたような具合に我々に見せつけてくる。店主は店主で限界に近い「盛り」に邁進せねばならず、客は客で出された氷を一滴もこぼさぬことに最大限の努力を払う、それでこそ緊迫感に満ちた真剣な空間がそこに生まれるのである。それは誠意の問題である。盛りは店主の挑戦であり、それに応えて鮮やかに完食してみせるのは客の義務なのである。
……そんな自分のポリシーにのっけから挑戦するようなかき氷が、目の前に運ばれてきた。もう、最初から「大盛り」である。

「宇治氷…あ、盛り多めね」とかそういう余計な発言を許さない、妥協のない限界に近い「盛り」が目の前にある。これが通常なのだ。そしてその通常以外一切の余計なメニューはこの店に存在しないのだ。これを食え、しからずんば出でよ、と店主は訴えている。数多のかき氷食いに絶望を見せつけたかき氷。面白い。それでこそ足を運んだかいがあるというものだ。
いい加減な喫茶店の「ふらっぺ」ならいざしらず、きちんとした「かき氷」を食うにあたっては、いくつかセオリーがある。写真を見て頂ければ分かるが、ちゃんとした「かき氷」というものはかならず物理法則を無視したように、上から見た際、下の器が見えない…つまり器をはみ出る「盛り」になっているものだ。これを食う際、のたのたと手間取っていては、必ず食べていない側面が溶けて速攻で卓上に氷が流れ落ちていくことになる。そこで「まず外面を削る」というのが初手の作業だ。いきなりトンネルを掘り始めるのは下策である。全体の構造が偏って崩落して、予期せぬ事故を引き起こすこと請け合いである。また、頂上から食べ始めるのも素人のやることである。トッピングは全体にからませてこそ意味があるのだし、先にアイスクリームと小倉を食って腹一杯になってしまってはかき氷が楽しめないではないか。また運良く食べ進めたとしても、上から圧力をかけ続けた結果、必ず下の氷は潰れるか溶けるか、いずれにせよ無惨な結果になるだろう。
そこで初手のセオリーは「削り」である。外面を削っていく作業……それも器を微妙にまわしつつ行うのがコツである。スプーンを一定の方向で動かし、決して内から外から使ってはいけない。なぜなら力の加減というのは思っているより難しいものであるし、また時間の経過と共に硬度の変化する氷に合わせて、力加減自体も徐々に変化させなくてはならないからだ。そういった微妙な作業をするためには、スプーンを持つ手を動かしてはならない。器を微妙に回転させつつ……削るうちに指先の感覚が危険を伝える。この氷は外骨格型だ
……説明しよう。よいかき氷というのは上に書いたように「ふわふわ」でなくてはならない。しかし「ふわふわ」の氷は限界を超えて盛ることはできない。そこで多くの名店が取っている方法は、職人の熟練の掌技によって氷全体を微妙に「締める」という方法だ。これは、みつをかける前に行う作業で、みつの濃度自体もそれにあわせて調製する必要があるのだが、上手に「締め」が行われると、外はやや固めだが中はふわふわ、そして盛りは限界以上、という絶妙のかき氷が完成するのだ。しかしこれを上手に食べるのは至難の業である。全体が固いなら、素人でもそれほどの失敗なく食べることはできるだろう。しかし、外側が固く中が柔らかいかき氷は、ほんの一手の失敗で崩落する。幸せなものであるべき食卓上に無惨な地獄絵図が展開されることになる。さすが悪魔の城は伊達ではない。しかし、上級かき氷食いの間では、この問題は既に解決済みだ。どうするか? 簡単な発想の逆転である。「食うそばから自分のスプーン先で氷を締めていく」という作業をするのだ。それによって全体の崩落を防ぎ、食べ進めるという作業を可能にするのだ。トンネル堀りの世界では19cになって「シールド工法」という名で呼ばれ画期的な技術と言われたこの方法も、平安時代からの歴史を誇るかき氷の世界では常識の部類に属する技法である。この技法を行うとき、客は「食する」という単なる受動的な存在から自らの食を創造する能動的な主体へと変貌する。こういった技法をマスターすることは、かき氷食い上級者への第一歩である。
さて話が逸れたが、そうやって全体を再び固め直しながら、周囲の掘削は徐々に進んでいった。しかしここで私は更なる罠に気が付くことになる。頂上の小倉あんの異常な量と、不安定に載せられたアイスが徐々に溶け始めていることである。重ねて言うが、あんを先に食べてしまうのは下策である。後半の氷を食べる際に宇治みつだけで食うのでは、余りにも味気ない。いや、最初から単なる宇治氷ならあきらめもつこうというものであるが、これは宇治氷という名前の宇治金時である。金時なければただの宇治、である。やはり小倉あんは温存しておきたい。そこで、次なる技法「トッピングおろし」にとりかかることになった。
「トッピングおろし」はいささか高度な技法である。先ほどの「締め直し」を併用しつつ、上部のトッピングをおろすフィールドを、側面から下方に掛けて確保するのだ。それはうずたかく積み上がった氷の山の中腹に人工のテラスを作る作業と言えよう。その位置の見極め、着工から完成、そして最後の移動作業まで、息をつかせぬスピードで行わなくてはならない。この辺りでそろそろ相方がこちらのただならぬ様子に気が付いてきた。「ごめん。崩さないように食べようと思うと、一瞬も気がぬけなくて…」…笑われるが、こっちは真剣その物である。わずかな余裕もない。速やかにこの作業を進めなくてはならない。慎重に、スピーディに、そしてなめらかに進むスプーン。しかし次の瞬間グラッと全体が傾き一瞬の戦慄が走る。なんと、内部はここまでふわふわなのか…(汗)なんとか傾きは4度ほどで止まり、作業は再び開始された。冷や汗を拭う。冷や汗?……そう、この時点で既に並のかき氷と同じくらいの量の氷を食べた私の身体は、業務用空調機の威力もあって、32度を越えようとする外気温にもかかわらず徐々に冷え始めていたのである。
傾きを修正するために、反対側と左右にも小さなポケットをつくり、そちらに小倉あんを崩しておろす作業を並行して行った。これにより上部の加重が分散され、また傾きが一方に偏ることもなくなり、全体の作業の安定感が増した。悪魔の城恐るるに足らず。とすら思え始めた。順調に掘り進め、ほどなくアイスクリームの塊を受け入れる穴が開こうという辺りで、しかし私はそこで更なる脅威に直面した。底面が液状化し始めている。ここまでの作業に時間をかけすぎたのか、いや、通常通りのスピードではあったのだが、このサイズだと「通常スピード」では間に合わぬのだ。最初に述べたとおり、液状化はかき氷食いの恥である。店主の心遣いを無にし、ただの甘い水を飲むなどという屈辱に満ちた行為を見せるわけにはいかない。一刻の猶予も許されなくなってきたことは明らかだ。すみやかにクリームを下ろし、しかしその成功の余韻に浸る間もなく、黙々と食べ続ける。無言。ひたすら無言。
……全体の半分を食し終わる。ここで、作業自体の安全性には目算がついた。もう崩落の危険はない。小倉あんも、アイスクリームも適当な量で残っている。液状化しはじめた底面も、底からすくいあげて、あたかもそれ自身がみつであるかのように、食べる面にかけていくことで、全体の液状化の進行は止めることができた。前途は明るい。にも関わらず、私には余裕はなかった。なぜか? 既にここまでで一般のかき氷大盛り並の量を食っている。しかもこの店のみつは相当甘い。この店のかき氷を完食するのは、「ダダ甘のかき氷(大盛)を2杯連チャンで食う」行為に等しいということに気付いたからだ。それで果たして自分の胃は持つのだろうか? 血糖値の急激な上昇は身体に異常をもたらさないだろうか? …緊迫する。しかし食べねば始まらない。今はただ食べるしかないのだ。もはや食べるという行為は作業と化した。


……完食。


達成感は無かった。ただ不安だけがそこに残っていた。夏の最中だというのに、最初に運ばれた卓上の水はほとんど手つかずのままそこに残っていた。身動きすることすらできない。からだが芯から重い。とりあえず立ち上がり(こういう話をするのは恐縮であるが)トイレに向かった。明らかに全身が冷えていた。トイレの中で3分ほど過ごした時、やはり「それ」が襲ってきた。まぁ予想したことではある。小学校の時、人体の限界に挑戦すべく牛乳200mlを、1本あたりきっちり3秒というペースで5本一気飲みしたときも、あとでこういう状態になった。今回は少し早かったが、自分の身体の限界というのはまぁ大体分かる。食べている途中でこうなることは分かってはいた。しかしそれでも食べずにはおかない。それがかき氷食いというものである。悔いは無い、ただ一つの仕事を終えたという感慨があるだけだ。しかし、私はまだこの店の真の恐ろしさに気付いていなかった。
トイレから出た私の目の前には、身長150センチくらいの小柄な、しかしずんぐりした婦人が座っていた。彼女は私がのたうち回る思いをして完食したこの悪魔を
平然と食っているッ!
……
これが悪魔の正体か……
………


数分後、私はズタボロにうちのめされたプライドと、芯からダルい身体を引きずりながら、数々の看板が奇体な趣きで街を彩っている京極を上っていったのであった。*4(完)
※この作品は基本的にはノンフィクションですが、一部そうでないところや、他作品へのリスペクトがあります。

*1:今作った。

*2:ヘルシング」第8巻発売記念。参考:http://www.geocities.jp/homeyohomero/kakikae/hell0.html

*3:祇園都路里のかき氷などは、このトッピングの自由さによって無数のバリエーションが存在することが知られている。

*4:丸善はもう無いというのに。