自殺予告手紙について

スティーブンスンの「自殺クラブ」という話を子どもの頃に読んだ。詳細は略すが、自殺したいが勇気がない…という人間が集まってクジを引き、「被害者役」と「殺害者役」を定期的に割り当てるというクラブの話だ。
自分で自分の命に幕を引くのは恐ろしいが、誰かが殺してくれれば幸いだ…もちろん人殺しだって本来やりたくはないが、誰かに殺して貰う以上は誰かを殺すという役目を引き受ける必要もあるかもしれない、そういう意味ではFAIRなシステムといえばそうなわけで、もし誰も殺さずに殺して貰えればラッキー、と、まあそういう仕組みである。「死にたい」人間の集まりだから、生き残ってもメリットは何も無い。一種の互助会制度と言えるだろう。
で、好奇心でそこに忍び込んだ男が「被害者役」にあたってしまい、頑張ってなんとか生き延びる、というようなストーリーなのだが、子供心にも実にくだらない、そして随分不公正な話だと思った。クラブよりも、好奇心で忍び込んだ男がそもそも馬鹿だし、さんざん見物だけして自分が死ぬ番になったら逃げ出すというのが卑怯だと思ったからだ。死にたくなければ最初から自殺クラブになど入らなければ良いのだ。
さて、ここからが本題。余り言及したくない話題だったが、
文部科学省宛に自殺予告手紙届く
一言。
くだらない。
役人の無責任さ、ひいては現在の日本社会における「無責任な大人」の姿と、それを信用できない子どもの絶望が典型的に表れた出来事だと思う。こんなことで大騒ぎして、今度は全国からじゃんじゃん同じような手紙が届くだろう。同様の処理をしようと思うとどれだけのマンパワーがそれに削られ、結果としてどれだけの重要な仕事が後回しになることか。そんなことに国家予算を使わないで欲しい。本当にくだらない。
確実に言えることは、11月11日にこの手紙を出した子どもが死ぬなんて絶対にないだろうってことだ。*1それは、その手紙にセコく予言されているような「状況の改善」が起きるからではなく、本当に死ぬ人間はこんな思わせぶりなメッセージを送ったりはしないからだ。死ぬという意志を公開すれば、当然ながら周囲に警戒され、失敗の可能性が高まる。本当にただ死にたいならばそのことの方を恐れるのが自然で、本当に死ぬ人は周囲に気配を見せず突然黙って死ぬ。だから怖いのだ。死ぬ死ぬ言ってる人間を眼前にしたら、もちろん誰だって慌てるだろうが、本当に重要なのはそちらではなかったりするのだ。逆に心配されるのは、こんな手紙を公開することで(しかも日付まで出して!)、自分が予告したかに見せかけてその日に死のうと密かに決心した子どもが全国で数人くらいいるかもしれない…ということの方だ。公開した人間はそのことを心配したか?おそらくしていないだろう。その程度の想像力もなく、多分届いた予告を公開しなかったらしなかった責任を問われることを恐れて公開したのだろう。今回の公開に責任のある文科省職員(または政治家)は、残念ながら真に無責任野郎であり大馬鹿者だとしかいいようがない。11月11日にもし全国の複数箇所で自殺が起こったら、それは公開を決定した人間が背中を押したのである。*2
そしてまた、手紙を送った主も馬鹿野郎だ。『同級生には「クラスのみんなへ」と題し、「みんな責任をとって自殺してください」…などとつづっている(上記リンクより)』だ?アホか。ハッキリ言うが「クラスのみんな」なんて誰も死にません。そして他人に平気で「死ね」と言える人間が他人から「死ね」と言われたとしても、同情の余地なんてないということを心にとめておくべきだ。いじめがあっただろうことを疑う積もりはない。しかし、この手紙を書いた彼がinnocentであるとは私は思わない。
昨今のいじめというのは、あたかも自殺クラブの様相を呈している。軽い気持ちで参加しているのかもしれないが、参加者の誰かに全員の代表としてのとんでもない責任を背負わせることを一種の娯楽として漠然と肯定しながらゆるくつながることに満足感を覚える連中の集まりが、この社会のあらゆる場所に見られる。*3誰かのことなら「死んでも良い」と思ったり、誰かを追いつめる相談をその人から見えないところで他人に持ちかける人は、いじめに荷担している。「いじめ」というのは、つまりそうやって自分達の不安や矛盾を一人の責任に帰すことで集団が負うべき荷を免れようとする卑怯な娯楽サークルであり、自覚してそこに身を置かないようにしない限り巻き込まれていく巨大な無責任の連鎖サークルがその実体である。そして、誰もが当事者であるその狭い世界の中では、最終的に誰が手を下し誰が死んだかというのは本質的な問題ではない。彼らはそれぞれ「加害者役」であり「被害者役」を割り振られたに過ぎないのだ。問題は、現在の日本における「集団づくり」の論理がねじまがって「自殺クラブ綱領」にしかなっていないという現実であり、そのことの意味を指摘し対策を練らない限り現在のヒステリックな状況が終わらないということだ。現在いじめられていようがいまいが、現在子ども達に必要なのは、毎日クジを引かされるような生活が間違っていることに気付き、まず自殺クラブのような自分が属している集団を脱退すること。そして教師に必要なのは、生徒が作っている集団の「自殺クラブ的体質」に気付き、強制力を持ってそれを解散させるとともに、正しい集団作りを身をもって指導すること。そうでなければ本当に重要な点は永遠に変わらず、自殺者は増え続け、政府は無駄な支出を迫られ続けるだろう。
それは、具体的にはごくごくシンプルなことだ。
『陰口を言わない聞かない』
誰かのコトを、かげでこちょこちょ言わない。それを辞めるだけで、あなたが子どもなら「自殺クラブ」をやめられる。あなたが大人なら子どもの前で誰かの陰口を言わない、他人にも言わせない。もしそれを言う人がいたら、すぐに子どもに対して「これは間違ったことなのだ」というメッセージを与える。どういう方法でも。それをするだけで、あなたは子どもを自殺クラブから脱退させることができる。教師は生徒が陰口で盛り上がったりしていたら、厳にいましめなくてはならないし、自分自身も決して教室で身近な他者の批判めいたことを、ほんのそぶりにさえ出すべきではない。それは子どもに誤ったメッセージを与えることになるから。そのためには、日常あらゆる身の回りから「陰口」めいたことを排する必要がある。…そんな基本を理解している人がどれだけいるか?
陰口というのは、反論不可能な批判であり、従ってどんなに誤った内容であっても修正できない、そしてその目的とするところは情報の恣意的な操作に基づいて虚構の連帯性を生み出すことにある。陰口によってできあがる集団、『根拠無く誰かをわるものにして盛り上がる』というその集団こそは、その時既に『いじめ集団』であり、そして理由無くターゲットが決められている以上次に誰が被害者になるかも判然としない、『自殺クラブ』そのものなのだ。誰かの陰口を言って人と盛り上がった瞬間、その人はもう可能性論としては誰かを殺しているに等しい、人はそこまでの自覚を持つべきなのだ。そしてそこをなんとかしない限り、差別やいじめと言った「陰湿な排除の共同体」問題は解決しない。
で、今回の自殺予告手紙。それは誰かに対して「死ね」と言っているからだけでなく、正体を明かしていないという点で、それは力のある人間にこっそりと「陰口」をきいたのと同じであり、その意味で手紙の主は明らかに『自殺クラブのメンバー』だと私は考える。仮に、その彼がこれまで誰かをいじめたり誰かがいじめられているのを止めなかったり…という事実があればもちろんのことだが、仮に無かったとしても、彼が今回自殺クラブのメンバーとして振る舞っているという事実には何も変わりがない。陰口以外で誰かを批判することができないという時点で、彼は自殺クラブのメンバーそのものなのだ。そして、それを真に受けて盛り上がる文科省の役人も、これでは自殺クラブのメンバーそのものでしかない。手紙の主は「自殺します」と予告しているが、死にたくないから手紙を送っているのであり、それを真に受けて助けようとし、「加害者役」を特定して罰するというのは、小説「自殺クラブ」の主人公と同じ意味で二重に不公正である。一つは自殺クラブに入ったという意味で、もう一つは、自分から入っていながらその綱領を破ろうとしているという意味で。もう一度言う。死にたくなければ最初から自殺クラブになど入るべきではないのだ。
文科省が真に反省すべきポイントは、そもそもこのようなくだらない手紙が文科省に届けられたこと自体だ。上記の構造についての説明に基づけば、このような手紙が届けられること自体を本来恥じなくてはならない。かような手紙が届くと言うことは、文科省自身が自分の「陰口」を聞いてくれる相手…つまり「自殺クラブのメンバー」だと小学生にすらみなされているということなのだから。にもかかわらずそれを真に受けて大騒ぎしている。これでは愚か者の集まりと言われても仕方ない滑稽さだ。これから地方の教育委員会がさぞかし「いじめ」られ、ついで校長が、そして現場の担任教師がたくさん「いじめ」られ、と、「いじめ」の連鎖が続くだろう。最後にババをひかされるのは誰か。またどこかの校長が首をくくってお終いなのか。この手紙が引き起こしている事態というのは、そういういじめの連鎖そのものであり、文科省はこの手紙を真面目に取り上げることでいじめの連鎖を引き起こしている。もちろん対処は必要であろう。粛々と対処すればよい。大々的に公表することは、有害なだけで無益だった。先日北海道滝川市教育委員会が遺書を非公開として叩かれたことにおびえているのだろうが、あれだって別に責められるようなことではない。死の直前に書かれた遺書の内容が、感情的なものに偏りすぎているのではないかと考慮し、それが事実であるどうかのみ調査し、公表はしない、というのは別に間違った判断ではないだろう。マスコミは、保身の為に隠したと言いたいらしいが保身の為に公表するということだってある。公表することで騒ぎを拡大し、被害をも拡大すると分かっていながら、自らの責任を逃れるというだけのために公表する…なぜそれは叩かないのか。話題になるからか。ニュースにさえできれば、誰が死のうと自分たちは儲かるからか…と揶揄してみたくもなる。
考えれば考えるほど暗澹とするニュースだ。
(11/10 15:30 再度改訂)

参考:公開された遺書本文
全文を見たが、上記文の主旨に特に変わりはない。参考まで。

(更に追記)
先日私がいじめ問題とその対策について書いたエントリはこちら。
http://d.hatena.ne.jp/jo_30/20061024/1161696016
ご参考まで。

(更に更に追記)
予想通り便乗が来ました。
<自殺予告>新たに1通届く「高2女子」から文科相に
私をどう罵って頂いても結構です、それで問題が解決するのならば。しかし、事実は逆ではありませんか。最初の手紙を大々的に取り扱った結果がこれですが。
で、これはどれくらい続くか、いつまで続くか。この件について「責任」を取る覚悟は、どなたにあるのか。コメントを残された方にはぜひご意見をいただきたい。できれば文科省の職員にも、正義面をするマスコミ関係者にも答えて頂きたい。目の前の一人に対して、善意で/責任逃れで/怠慢で/欺瞞で/安い同情で/安易に/無責任に/陳腐に/無定見に/さしのべたつもりのその手が、一体何人を傷つけ何人を殺すのか。今起こっている、これが自殺クラブでありいじめの構造そのものなんだと私は繰り返し主張したい。だから
いじめによる自殺を減らすことは必ずできる。
今回のことを教訓として、きちんと反省できるならば。

(更に×3追記)
<自殺予告>止まらぬ連鎖…有効策なし焦り濃く

 「連鎖的なものが来ることは覚悟していた」。13日行われた、日本記者クラブ主催の記者会見。招かれた伊吹文科相は苦渋の表情で、自殺予告の手紙が続いていることに言及した。
 文科省が「11日に自殺する」との手紙を公表したのは7日未明。各都道府県教委にいじめの正確な把握と報告を求めている手前「情報隠し」はできない事情もあった。伊吹文科相は「(公表してもしなくても)どちらになっても必ず非難を受ける。非難は私が受けるんだと、毅然(きぜん)とした姿勢を示さないと教委、校長がついてこない」と選択の理由を強調した。

公表すれば連鎖が来るのは「覚悟していた」が「校長をついてこさせる」ためには「毅然とした姿勢を示す」必要があった、と。つまり文科省指導力を発揮する為には、いじめで鬱になっている子どもが死んでも良い、ということですか。あるいは「あらゆる情報は公開されるべきである」とする情報自由教の信者か何かですか。*4
伏せるべき情報を伏せたことを『情報隠し』だと批判するような無定見なマスコミに対してまずトップとして反論すべきであろうに、自ら率先してマスコミに踊らされ無定見な公開に走った罪は重い。結局マスコミという外部の力には弱く、校長という自分の部下には強い、そんな無能管理職みたいなものなんですか。今の大臣は。
こういう人間が組織にいると、明らかに組織はダメになります。責任を取ろうとする気概を持つ人が消え(既に次々自殺という形で失われていっているようですが)事なかれ主義で事大主義、減点主義で足を引っ張り合う、そして上意下達式の人ばかりになり、最大限良心的に振る舞おうとすると一切情報を上に上げない一匹狼しかいないような組織になっていきます。「上」の顔ばかり伺うびくびくした連中と一匹狼しかいない集団、そんな組織に「いじめ」根絶の方策が見えてこないのは当然ですよ。
非難の矢面に立つ責任感があるなら、身をもって校長さんたちの自殺をまず止めてやって下さいな。勢いしかないならそれでもいいから、彼らがなぜ情報を伏せていたのかを知り、考えて、同様に自分の責任で伏せている人々を責めるのではなく、そうする必要についてまず考え発言するという段取りを踏むべきでしょう。まあ勢いにのった恫喝がこの人の手法のすべてなのかなあ、と、未履修問題でも思いましたけれども。
とりあえず今回の公表で現場の校長が「大臣に続け!情報隠しは許さないぞー!」とか思って行動したらどうなるでしょうね。全国の全ての教室で起こってる情報が逐一文科省に報告としてあがってくる、と。とんだ監視国家ですな。何が悪いって、そういう大人のヒステリーが一番悪いですよ、子供には。

(更に×4追記)
上で書いたようなことは、当然既に言われてることだったようだ。
http://d.hatena.ne.jp/marco11/20061113
すいません。勉強不足のバカチンです。

*1:11月7日時点でこう断言しておく。こんなもの別に予言でも何でもないが。

*2:仮に起こったとしても、そっちは誰も責任を取らないだろう。それが腹立たしいので書いておく。

*3:天皇制もその一種だ、それこそが『内なる天皇制だ』と言いたい人もいるだろうが、私は取り敢えず言わない。もし広げるなら、もっと汎アジア的な心性や、人間の社会システムの矛盾にでもつなげる方が有益だろうと思うからだ。同様の心性は、別に日本だけに特殊に見られることでもないのに、天皇制だけをいわば特権化して比喩に使用することに違和感が拭えないからだ。

*4:最近、この情報自由教のことをジャーナリズムだと勘違いするメディアが増えたんではないだろうか?「真実を報道する」というのはそういう意味ではないよ。