先日(11/7)のエントリに追記2(麒麟さんへの返事を兼ねて)

先日の私の話*1は、誰もがある「物語」を生きている、という話から着想しています。たとえば、
「子供が周囲や親に暴力を振るう」という「物語」を生きている人は、その「物語」を自分の意志で脱出しようとしない限り、自分の人生の中でその中の様々な役を生きることになる…「子供」になったり「周囲」になったり「親」になったり…と、人生の色々な段階で様々な役を演じることになるという話です。「物語」に気付かない限り、立場は変わってもその人の人生は永遠に一つの所をぐるぐる回っている。それに気付けないと、その人は「人生ってこんなものだ」と誤って考えてしまうという話です。
先日のエントリの20番目を越えた辺りから、「いじめられた経験がある…」と語る二人の方からコメントをいただきました。*2それを読んで思ったのは、この人達は本当の意味で「努力」したんだろうな、ということです。それは、ただ「いじめ」を越えてきたということを言っているのではなく、自分の「物語」に気づき、その「物語」自体を変えようという努力をしてきたのだろう、ということです。かつて「いじめられて」いた人間が*3、生きてそして今「いじめ」の輪に入っていないとすれば、努力して自分の囚われていた「物語」を脱出できたということであり、それが人生において本当に大事なことなのだと思います。
麒麟さんという方が、コメントの最後で

それになんでも死ねば解決するかのような最近の大人の行動から影響があるのではないでしょうか?
今日も九州で自殺した女の子の学校の校長先生が自殺した事でより思いました。
大人がそんな風に見本を見せているような気がしてなりません。

と書かれましたが、上の意味でまさに、これらの大人自身が『いじめ』物語から一歩も外に出ることが出来ていない、ということを強く感じます。私たちに今真摯に必要なのは、「物語」を自覚し、越える力を持つこと、越える道を指し示すことだと思います。

*1:いじめ自殺に対して思う。大人も子供も、死にたくなければまず「いじめの連鎖」から離れよ!という話

*2:あらためてありがとうございました。

*3:先日の私のエントリの主旨から言えば、「いじめて」いた人間もまた