教育の自由は国家の活力

教育の自由は国家の活力である…という一見極めて理想主義的な論に、藩校を持ち出すことで極めてシンプルに反論しているのが面白かった。(内田樹の研究室『教育基本法と真の国益について』
とはいえ、問題は政府・国家だけにあるのでなく、あとで政府・国家に欺されていたと言おうとしている人たちにもあると私は思う。
そんなことはかつての戦後の「反省」や「責任論」の様子を見ればよく分かる。戦前、従順に体制に従い、制度批判に声を上げる人を軽蔑したように眺めていた人が、戦後口を拭って「知らなかった」「欺されていた」「私も被害者だ」と声を大にして言ったものだ。*1「欺されていた」「仕方がなかった」とあとから主張するほど恥知らずなことは無いと思うが、どうもそういう人にとってはそうではないらしい。悪いのは「私を欺していた人」であって、かような極悪人には純情な自分は欺されても仕方がない、とでも言いたいのであろう。オレオレ詐欺は当然悪いことだが、欺される方も大抵どうかしているのではないかと私は思う。
今、教育基本法の問題を、条文も読まず「よく知らないけど、変えた方がいいんじゃないの」レベルで語っている人は、きっと新たな『戦後』に口を極めて現体制を罵る人々だろう。「善意」で「純情」な人々。いつかくる戦後のために、そしてそのとき自分を純粋な人間であり無罪であると言い訳するというその狙いの元に、敢えて自らを「無知」なる位置にとどめおく人々。自分はinnocentでありうるという幻想に浸る人々。私は彼らを咎めはしないが、それに与しようとも思わない。
今、「私個人としては遺憾に思うがなにぶん文科省が強く指導をしてくるから仕方ない…」云々と主張したりして「下」を指導しようとする人々は、逆に文科省に「もっと強く指導してくれ」と懇願したりしているという現実がある。なぜそんなことが起きるかというと簡単なことで、上からの指導が強い(強いと主張できる状況である)ほど自分が下に強く出られるからだ。自分の責任を一切問われることなく強く指導ができるからだ。「文科省の方から強く言ってきてますから、無理でも一つよろしく」というような責任逃れの文言が組織の中から自然発生してくるとき、官僚主義は完結し組織の腐敗は決定づけられる。
日本の組織的な弱体化というのは、見かけより根が深い問題だ。我々の社会は前世から、本当にいろいろなものを引きずっているのだろう。普段外を出歩く時にはしまっているけれど、実はあなたにも私にも、ホラ、しっぽがあるでしょう。長さは色々だけれど体の中に約4センチ。一億人のしっぽを集めたら約4000km。日本列島*2をはみ出すほどひきずってる、と。
まあ、そういうことですよ。

*1:たとえば武者小路実篤とか。

*2:日本列島は、幅300km長さ3500km。参考:http://www.taihiya.com/kiso/nihonrettou.htm