誰もが理想的に優しく親切で調和と協調に満ちた理想の世界の住人?

 我々の生きている世界というのは、どれほど「優しい」世界なのか、と思わされることがある。「いじめ」を受けたと称する人の話を聞いていると、ときどき疑問に思うこと。「いじめ」相談を受ける際に言ってはいけないとされていることだが、「問題はあなたの側では?」と言いたくなるケースに出会ったときだ。
 もちろん「それがどんな理由であれ、ある人がいじめられたことは絶対に正当化され得ない」というのは正しい。それは当然の前提だ。「イジメ」というのを「努力しても変えられないようなことを理由にある人を集団から疎外しようとすること」と仮に定義すれば、それが当事者の人権を侵害することになるのは明白であり、いかなる個人にも他者の人権を侵害することが許されていない以上、その人を「イジメ」たという行為はどうやっても正当化され得ない。イジメの実行者は、極論すればたとえば『その人の存在が(たとえばキモくて、心静かに暮らしたいという)私の人権を侵害している』とでも主張したいのであろうが、残念ながらそれは主観的にはフィフティ・フィフティなのかもしれないが、客観的に認められはしない。
 たとえば、『忙しい部署で一人だけペースのゆっくりした社員がいたので、次第にその人はハブにされ周囲から無視されたりちくちく嫌みを言われたりして、結局退社に追い込まれた』…というケースでも、私はそれは「イジメ」にあたると言ってもいいと思うし、従ってその退社せざるを得なくなった社員には同情すべきだと思う。ただしその場合「イジメ」をしたとされる他の社員にも多々同情すべき点があろう。問題は充分に人を雇わない経営者側にあるのであって、意地悪い言い方をすればそういう社員が一人いるだけでまわらなくなるような現場を作り出し、かつ一人をスケープゴートにすることで不満を逸らせることによって利益を得ているのは明らかに経営者だからだ。このイジメに関して有罪なのは経営者であって、イジメの実行者でも被害者でもない。もちろん経営における合理的判断として、かの社員が明らかに経営上マイナスと思えば、経営者はスケープゴートとして雇い続けるのではなくきちんとした手続きと理由を述べて解雇すべきである。それを怠ったことが「イジメ」が発生した原因だと言える。*1
 しかし、自ら望んで入った競争の場で、自ら競争を放棄して、かつその競争を煽る雰囲気に傷ついたことを「いじめられた」と称するに至っては正直どうか?と思う所がある。たとえば専門学校に入った、周囲のレベルについていけなくて傷ついた、あれは一種のイジメだ……なんていう意見を見ると、明らかにそれって違うんじゃないの?と思う。自分を傷つけるものは全てイジメなのか。傷ついた経験を「イジメられた経験」と呼ぶことで自尊心が守られるのかもしれないが、成長の機会は明らかに失われていると思うのだが、彼らはそういうことを考えないのだろうか。極論を言えば赤信号で渡って車にはねられても「イジメ」なのか?ってことだ。まんざら冗談でもなく、そういうことを言い出しそうな人があちこちにいる。専門学校でついていけなくて…ってそれは明らかに自分の問題じゃないのか。
 私たちの生きている世界はそれほど安全で一人一人に親切で調和と協調を旨としていなくてはならないのか。専門学校でも、ついてこれない生徒一人一人のために立ち止まってゆっくり話を聞いて事情を聞いて特別プログラムを組んで…そんなことを求める自分が恥ずかしくないのか。そんな世界で、誰もが「今の自分」というぬるま湯の中にゆったりと浸かって、一歩も動かなくても満足できるような状況が本当に理想なのか。
 世界とは、もっとヒリヒリと焼けつくような、今いる場所に止まることを一瞬も許さないような厳しさに満ちた、その中で懸命に生きていく者が自然と多くを得ることができるような、だからこそ心ならずも落ちていく者に対して無限の同情を持つことも求められるような、そういうものなのではないか。これは理想論ではなく、事実として世界はそうだろうという話だ。たとえば(極端な話だが)アフガンの田舎に生まれ瓦礫の中で育ち、苦労して勉強し職を得、それでも必死に努力して家族を養わなくてはならない人にとって、「専門学校で…勉強についていけなくて周囲の雰囲気が冷たくて…イジメじゃないかと思って…」という話のどこに同情すれば良いのか。きっと唖然とされるのがオチだろう。「専門学校で…」と訴える人はきっと、そんなアフガンの田舎のお父さんの辛さなど考えたこともないのだろう。『今いる場所に止まらせてくれない世界ってボクに冷たいよ…』と訴える彼は、一瞬もそこに止まれない世界で懸命に生きる人に対して少しも同情の気持ちを持っていないのだろう。
 もっと頑張ろうと努力しないことそれ自体も問題だが、更に大きな問題として、もっと広い世界を知らないこと、本当の生きる辛さや苦しみを知らず従って他人のそれに対して同情の気持ちを持っていないことこそが、彼らをして「イジメ」の世界の住人…先日のエントリー風に言えば『自殺クラブのメンバー』にしているのではないか。『ボクって可哀想…』と呟く彼らメンバー達。本当に辛いこと悲惨なこと可哀想なこと、優しいこと温かいこと素晴らしいことを知らない彼らは、自分自身のその欠如に気付く必要があるだろう。そしてまた、それを彼らに学ばせてこなかった社会こそが、この問題の奥底にあり断罪されるべき存在なのではないかと真摯に思う。イジメという言葉は、今や心と体が子供な人が逃げ込む温かな蒲団になっている。病気なら仕方ないが、しかしほとんどの人はそろそろ起きて世界に出かける時間だ。蒲団を出てつめたい外気に触れ、目を覚ますべきだ。そして病気でもない多くの『子供』には、本当はそれが可能なはずなのだ。子供が蒲団から出て行かないのに親が周囲に対して言い訳してやったり「気分が悪ければ寝てていいのよ」なんて言うべきではない。親(社会)の仕事は大抵の場合彼らから蒲団をひっぺがすことなのだ。
 なんでもかんでもイジメだと言う人は、世界がもともと優しさと協調に満ちていると思っているのだろう。だから私は敢えて言いたい。
『世界は悲惨だ。それが冷たい事実だ。そしてだからこそ、素晴らしいことは本当に素晴らしい。起きてそれを探しに行こう。』



…以上、ここしばらくイジメについてもやもやと考えていたことを、さるブックマークエントリをきっかけにしてまとめてみた。

*1:まあ、このケースなら確実に、その社員がやめたあと次のターゲットが設定されることになると思う。その意味でも、問題はその現場とそれを許容している経営者にあり、個々の人間にはない、と言うべきだ。(追記)ちなみに、数々のイジメを生みだしている現在の公教育現場に関しても、先進国には稀な40人学級制度という金をかけない経営を強いているしぶちんの公教育オーナー…すなわち『日本国民』全員が有罪であることは言うまでもない。