"I know it's over"The Smiths

http://d.hatena.ne.jp/dasaitama_osamu/20070420/1177062239
通りすがりに懐かしい詩句を見かけ、またエントリの内容に言いしれぬ同感を覚えたので、余計なことですがちょっとだけ記事書いてトラバします。すみません。
「ありのまま」を受け入れてくれる人も大事ですけど、多分そういう状態のときは、どれだけ頑張ろうとしてもヒルでしかあり得ないかもしれません。というか、あり得ませんでした、正直自分の場合は。

そんなとき、たまたま成り行きで(というか半分自暴自棄だったのでいい加減ムカついて)「普通考えたらあの人と衝突しないだろ、常識的に考えて」みたいな人と正面切って衝突したら、急に妙に周囲と馴染んだ空気が生まれて驚きました。みんな言いたかったけど言えなかったことを空気読まない自分が代行した、みたいな。それだけが原因ではなかったのかもしれないけど、それをきっかけに何かに気付いた自分は、そこから大学を離れて全然違ったキャリアに歩き出したこともあり、緩やかに「社会」復帰することができたような気がします。

中島らものエッセイに「ワシしがワシがの『が(我)』を捨てて、おかげおかげの『げ(下)』で暮らせ」という格言をぶつぶつ唱える変な社長の出てくる話がありますが、「下」で暮らすことと「我」を捨てることは似ていますが実は同じではありません。自分の怒りが私憤なのかそれとも公憤・義憤なのかという区別がつきさえすれば、時には「我を通してかつ社会的」であり得る場合がある。そして、多かれ少なかれ社会で生きていくために必要なのは「下」になることであり、従って「我を通して下」なる道がその道であるということになる……私が「気付いたこと」というのはおおむねそんな感じのことになるでしょうか。余りにも当たり前で単純なことかもしれませんが。

ただ、「自分の主張を形にすること」がそのまま「他人のために何かすること」になる、という幸福。そして「他人のため」に何かするのがあんなに楽しいとは、そのときまで自分は正直夢にも思わなかったのです。その後そういうことは、特に汚れ仕事をすると実感しました。たとえば(ソーリアル、な意味で)便所掃除とか。自分の部屋もろくに掃除しない自分ですが、仕事で公共の場所を掃除するときは妙に熱心です。and so on.

本当に
『 笑い飛ばすこと、憎むことなんてとても簡単
  でも、紳士的で、親切であるには努力が必要 』
ですね。簡単ではない生き方がしたい、と思います。今も。

(追記)
(ブクマコメントへの返信)ええ、たまにはそういうこともあるみたいです…世の中。